恐怖
サマーナイトパスポートなる夏休み限定のフリーパスを二枚購入し、入場口をくぐり抜けたその途端、サンダル履きの少女は地面を強く蹴ると駆け出した。
私も急ぎそのうしろ姿に続くのが正解だったのはわかっている。
だが、彼女が向かった先にある大きな二つのループを前にして、とてもではないがそんな殊勝な気持ちになれるはずもなかった。
「かなたさん! 待ち時間なしですって!」
湖上を渡ってきたばかりの涼し気な風に、白いワンピースの裾をユラユラとはためかせた少女が、ジェットコースターの搭乗口へと続くスチール製のタラップを後ろ向きに上りながら、さも嬉しげに有り難くもない報告をしてくる。
待ち時間がないということは即ち、心の準備をする時間がないということだった。
搭乗口に到着したのと同時に、悪魔の笑みを浮かべて待ち構えていた係員によって、先頭車両のそのまた先頭の座席に着座させられる。
客は私と彼女の二人だけなのだが、この位置に乗せて車両の重量バランス的に問題はないのだろうか?
今までの人生に於いて、この手のアトラクションを避け続けてきた私にはそのあたりの知識が欠如しており、それゆえに感じる恐怖もひとしおであった。
「それでは発車いたします! いってらっしゃい!」
二十代前半と思しき見目麗しい女性係員の掛け声が、私には独裁者による粛清宣告のように聞こえた。
壊れた自転車のようなガチャガチャという不協和音を立てながら、私と彼女だけを乗せた車両は青褐色の空へと向かい昇って行く。
仰角四十度のちょうど真正面、手を伸ばせば届くのではないかというような距離に三日月が出ているのが見えた。
「お月さまが綺麗ですね」
「ソウデスネ」
こんなクリティカルなシーンにして尚、月を愛でることに心のリソースを割くことができるとは。
さすがに常習者ともなると大したものだと素直に感心した。
やがて背もたれに感じていた加重が座面へと移る。
そしてその時は、突如として訪れた。
視界の隅にあった月が瞬時に消え去る。
それとほぼ同時に、この世界の重要な摂理のひとつである重力が喪失した。
ただしそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には重力だか遠心力だかにより逆に何倍にも増加した体重で腹膜が圧迫され「ぎょっ!」とか「ぎゅっ!」とか、とにかく声と呼ぶにはあまりに不出来な音が喉から絞り出される。
急な右カーブに差し掛かったところで視線も自然と右側へと流れ、その先の視界の片隅に満面の笑みを湛えた少女が映る。
(……笑ってる? 嘘だろ?)
私が今この時ここにいるのは、様々な不幸によってその心を弱らせてしまっているであろう彼女のことを思ってのことだったのだが、どうやらそれは思い過ごしだったのかもしれない。
この状況で笑顔になれるのであれば、仮に一分後に地球が滅亡すると聞いても眉ひとつ動かすことのない、彼女はそんな魔王のような強靭な精神力を持つ存在なのだろう。
その後のことはよく覚えていない。
次に気がついた時には、搭乗口の下りタラップの手すりを両手で掴んでいたのだった。
一秒でも早くこの死地から逃げ去り、助かりたい。
生存本能に従い、震える足を懸命に交互に動かし続ける。
「大丈夫ですか?」
あまり大丈夫ではなかった私は、コースターから十分な距離が取れたのを確認すると、いちばん近くにあったベンチの上に倒れ込んだ。
ざっくりと五分後。
やっと
その言葉を額面通りに受け取った彼女は本当に、それも二回連続でタラップを上り下りしたのだ。
ピンク色の唇をニカっと真横に大きく広げ、愉悦の極北を思わせる満面の笑みを浮かべながら――。
「次はどれにします?」
「さっきの以外ならどれでも」
「じゃあ……あ! あれがいいです!」
そう言って彼女が指を差した先にあったのは、狭い園内の一番奥にある屋内型アトラクションだった。
平屋の瓦屋根の上に掲げられている『旅館 賽の河原』という名前からして、ホラーハウスの類であることは間違いないだろう。
子供の頃に学校の遠足でここに来た時は、もっとわかりやすくお化け屋敷然とした外観だった記憶があったので、近年になってリニューアルしたのかもしれない。
入口のすぐ近くにある係員ブースに人の気配はなく、その代わりにぽつんと立て看板が置かれていた。
エンジング加工が施された木の板に『係員不在につきご自由にお入りください』の文字が見て取れた。
膝の高さまであるような長い暖簾をくぐると、すぐに板張りの長大な廊下が目の前に現れる。
「……かなたさん、手」
了承するよりも早く、か細い指が私の右手の親指をギュッと掴んだ。
何十メートルもあるような廊下をゆっくりと進んでいると、なにやら向こう側からも人が歩いてくるのが見えた。
暗さゆえにはっきりとはわからないが、どうやらあちらも二人連れのようだ。
順路とは真逆になるので、途中でギブアップして出口――というか入口だが――に戻るカップルか何かだろうか。
互いの距離が次第に縮まり、いよいよ姿がはっきりと見える場所まで来て、ついにその正体が判然とした。
なんとそれは――私と彼女だったのだ。
「鏡だね」
「……ですね」
ミラーに映る自分たちの姿を見せるという、たったそれだけのために長大な廊下を作ったのだろうか?
高さ二メートルはあろうかという大鏡の前に立ち止まったその時、ようやくにして設計者の意図を汲み取ることができた。
「ああ。そういうことか」
「え? なんですきゃあああああああああ!」
彼女は『なんですか』と『きゃあ』とをシームレスに接続した斬新な叫び声をあげると、ガクガクと体を震わせてその場にヘタれこんでしまった。
当然鏡にもその様子は映し出されているのだが、反転した平面世界の中にいる私と彼女は、保健室の片隅で埃を被っている骨格模型のような姿をしていた。
「これってCGなのかな?」
自分の手足を動かすとそれに連動して鏡の中の骸骨も、やや遠慮がちに四肢を振ってくれるのがちょっとだけ楽しかった。
床に座り込んでいた骸骨を抱き起こし、
先ほどまで手と手を繋いでいただけだった彼女は、今や餌の葉を求めてユーカリの枝に取り付くコアラの如く、半ば私の腕にぶら下がっていた。
かつて出張を装った同級生が私の住む街へとやってきた時にも、ちょうど今とまったく同じような密着の度合いで夜の住宅地を練り歩いたことがあった。
その時は私も酔っていたとはいえ、腕に当たる二つの膨らみに自分が男性であることを意識させられたのだった。
が、今の私の心境はといえば、おもちゃをねだる幼い娘を玩具店から強制的に退去させている父親のそれでしかない。
彼女はその後もすべての絶叫ポイントで、それはそれはとても律儀に悲鳴をあげ続けた。
そのたびに腰を抜かして地面にへたれ込み私が抱き起こすという、一種のルーティーンがこの短時間で確立していた。
入場から十分ほどの時間を経てようやく出口へとたどり着いた頃には、私も彼女もそれぞれ異なった理由で疲弊しきっていた。
「そんなに怖かった?」
「……最初の鏡に写っていた血だらけの女の人が、特に……」
「え? 血だらけの女? ガイコツじゃなくて?」
「え? ガイコツなんていませんでしたよ? 私が見たのはかなたさんの背中に……もう思い出したくないです」
もしかしたら私は彼女にからかわれているんだろうか?
そう疑いながら覗き込んだ少女の顔は、まるでブルーハワイ味のかき氷を食べたあとの舌のように青ざめており、強く抱きつかれた腕からはその震えが伝わってきた。
「茉千華ちゃん。早急に別のところに行こう」
「え? あ、待ってください!」
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