恐怖

 サマーナイトパスなる限定チケットを購入し、入場口のゲートをくぐり抜けたその途端、サンダル履きの少女は地面を強く蹴ると駆け出した。

 私も急ぎそのうしろ姿に続くのが正解だったのはわかっている。

 だが、少女が目指すその先にある二つの巨大なループを前にして、とてもではないがそんな殊勝な気持ちになどなれなかった。


「待ち時間なしですって!」

 ワンピースの裾をはためかせた少女は、搭乗口へと続くタラップを後ろ向きに上りながら、さもありがたげにありがたくない報告をしてくる。

 その一方で私はといえば、いつの間にか手のひらに掻いていた汗をシャツの裾で拭きながら、今にも消え入りそうな声で「……そう」と呟くのが精一杯であった。

 待ち時間がないということは即ち、心の準備をする時間がないということでもある。

 搭乗口で悪魔の笑みを浮かべ待ち構えていた係員により、先頭車両のそのまた先頭の座席に着座させられる。

 客は私と彼女の二人しか見当たらない。

 果たしてこの位置に乗せて車両の重量バランスに問題は生じないのだろうか?

「それではいってらっしゃい!」

 係員の口から発せられたその言葉が、私には独裁者による粛清宣告のように聞こえた。


 鉄でできた棺桶がガチャガチャと不協和音を奏でながら、青褐色の空へと向かい昇って行く。

 仰角四十度のちょうど真正面の、手を伸ばせば届くのではないかというような至近に、左側が少しだけ欠けた月が出ているのが見えた。

「お月さまが綺麗ですね」

 こんなクリティカルなシーンにして尚、月を愛でることに心のリソースを割くことができるとは。

 常習者ともなると大したものだと素直に感心する。


 やがて背もたれに感じていた加重が座面へと移り、突如としてその時は訪れたのだった。

 夜空に浮かぶ楕円が消え去ったのとほぼ同時に、この世界の重要な摂理のひとつである重力が喪失する。

 ただしそれはほんの一瞬の出来事だった。

 次の瞬間には、遠心力で何倍にも増加した自重に腹膜が圧迫され、「ぎょっ!」とか「ぎゅっ!」とか、とにかく声と呼ぶにはあまりに不出来な音が喉から絞り出される。

 急な左カーブに差し掛かったところで視線も自然とそちら側へと流れ、その先の視界の片隅に満面の笑みを湛えた少女の横顔が映った。

(嘘……だろ?)

 私が今この時この場所にいるのは、様々な不幸により心を弱らせていた少女をおもんぱかってのことだったのだが、どうやらそれは思い過ごしだったようだ。

 この状況で笑顔になれるのであれば、仮に一分後に地球が滅亡すると聞いても眉ひとつ動かすことのない、きっと彼女はそんな強靭な精神力を持つ存在なのだ。


 そのあとのことはよく覚えていない。

 次に気がついた時には、搭乗口の下りタラップの手すりを両手で掴んでいた。

 一秒でも早くこの死地から遠ざかりたい。

 そんな生き物としての本能に従い、震える足を懸命に動かし続ける。

「大丈夫ですか?」

 あまり大丈夫ではなかった私は、コースターから十分な距離が取れたのを確認すると、いちばん近くにあったベンチの上に倒れ込む。

 そして息も絶え絶えに、「まだ乗るなら一人でお願いします」と懇願する。

 その言葉を額面通りに受け取った彼女は本当に、それも二回連続でタラップを上り下りしたのだった。


「次はどれにします?」

「さっきの以外ならどれでも」

「じゃあ……あ! あれがいいです!」

 その細い指がさし示す先にあったのは、狭い園内の一番奥にある屋内型アトラクションだった。

『旅館 賽の河原』

 平屋の瓦屋根の上に掲げられているその名前からして、ホラーハウスの類であることは間違いない。

 入口の係員ブースに人の気配はなく、その傍らに置かれたエンジング加工が施された木の板に、『係員不在につきご自由にお入りください』の文字が見て取れた。

 膝の高さまであるような長い暖簾をくぐると、すぐに板張りの長大な廊下が目の前に現れる。

「……手、いいですか?」

 了承するよりも早く、少女のか細い指が私の右手親指をギュッと掴んだ。


 何十メートルもある廊下をゆっくりと進んでいると、なにやら向こう側からも人が歩いてくるのが見えた。

 暗さゆえにはっきりとはわからないが、どうやらあちらも二人連れのようだ。

 順路とは真逆になるので、途中でギブアップして入口に戻るカップルか何かだろうか。

 次第に互いの距離が縮まり、いよいよ姿がはっきりと見える場所まで来て、ついにその正体が判然とした。

「僕たちだね」

「……ですね」

 ミラーに映る自分たちの姿を見せるという、たったそれだけのためにこんな大袈裟な廊下を作ったのだろうか?

 高さ二メートルはあろうかという大鏡の前に立ち止まったその時、ようやくにして設計者の意図を汲み取ることができた。

「ああ、なるほど」

「え? なんですきゃあああああああああ!」

 改めて鏡に目を向けた彼女は叫び声をあげると、全身をガクガクと震わせながらその場にヘタれこんでしまう。

 当然その様子は鏡に映し出されているのだが、反転した平面世界の中にいる私と彼女は、保健室の片隅で埃を被る骨格模型の姿をしていた。

「これってCGなのかな?」

 自分の手足を動かすと鏡の中の骸骨もそれに連動し、やや遠慮がちに四肢を振ってくれるのがちょっとだけ楽しかった。


 床に座り込んでいた骸骨を抱き起こし、人気ひとけのない館内をさらに奥へ奥へと進む。

 彼女はいつの間にやらユーカリの枝に取り付くコアラの如く、私の腕にぶら下がるような勢いで取り付いていた。

 かつて出張を装い私のもと訪れた同級生とも、ちょうど今とまったく同じような密着具合で夜の住宅地を練り歩いたことがあった。

 あの時は――酒に酔っていたとはいえ――腕に当たる二つの膨らみに、自身が男であることを意識させられたものだった。

 だが今の私の心境はといえば、駄々をこねる幼い娘をオモチャ売り場から引き剥がしている父親のそれに近しい。

 その後も彼女はすべての絶叫ポイントで、それはそれは律儀に悲鳴をあげ続けた。

 そのたびに腰を抜かして地面にへたれ込んだ彼女を私が手を差し伸べて抱き起こすという、一種のルーティーンがこの短時間で確立していた。


 入場から十分ほどの時間を経てようやく出口へとたどり着いた頃には、私も彼女もそれぞれ異なった理由で疲弊しきっていた。

「そんなに怖かった?」

「そんなに怖かったです。特に最初のところの鏡に映っていた男の人が……」

「え? 男の人ってなに? 骸骨じゃなくて?」

「え? ガイコツってなんですか? 私が見たのは色黒の男の人が、かなたさんの背中に……ごめんなさい。もう思い出したくないです」

 もしかしたら私のことを怖がらせようとしているのだろうか?

 そう疑いながら覗き込んだ顔は、まるでブルーハワイ味のかき氷を食べたあとの舌のように青ざめており、きつく抱きつかれた腕からは震えが伝わってくる。

「……別のところに行こっか」

「え? あ、ちょっと待ってください!」

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