欲求

 水守家へと続く山道は相変わらず細く険しかったが、なんとか車を擦るようなこともなく無事に到達することができた。

「じゃあ僕はまた車で待ってるから」

「あの、もしよかったら一緒にきてもらえますか?」

「うん? それは別に構わないけど」

 茹だるような熱気を覚悟しながら車のドアを開ける。

「あれ? ここって案外涼しいんだね」

「はい。木が生い茂っているから地面の温度があんまり上がらないんだと思います」

 確かに足元からの輻射熱をまったく感じない。

 冬場がどうなのかは知らないが、今の季節に限れば羨ましいような環境に思えた。


「お邪魔します」

 広い吹き抜けの玄関で靴を揃えて玄関の框を跨ぐと、先に上がっていた彼女が両手にお茶のペットボトルを持って戻ってくる。

「ペットボトルのままでごめんなさい。よかったら飲んでください」

「ありがとう」

「あの、こっちです」

 二階へと続く階段を彼女のすぐ後ろに付き従う。

 忙しなく動く彼女のひかがみが目線よりも少しだけ高い位置に見える。

 そのさらに少し上では、まるで旗が靡くかのように制服のスカートの裾がパタパタと上下左右に揺れ動き、そして――。

 視線を階段の踏み板に落とした私は、足の動きを少しだけ遅くして残りの数段を上り切った。


「私の部屋です」

 そう言って案内された六帖ほどの洋間は、男の私がやすやすと立ち入っていいような空間とは到底思えなかった。

 水色のカーテンに桃色の寝具、そしてやはり桃色のカーペット。

 さらにはそこかしこに、ぬいぐるみやヌイグルミや縫い包み。

 そのあまりに少女少女したインテリアに思わず顔が熱くなる。

「ちょっと取ってくるものがあるので。ベッドにでも座って待っててください」

 勇気を出して足を一歩踏み入れると、視界の七割強を占めるパステルカラーに目眩がした。

 目元を抑えながら踏みとどまっていると、かつての恋人の部屋でもした甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 それはおそらくは化粧品の類のものなのだろう。

 窓から見える景色は、そのほとんどが杉の木の緑で占められていた。

 二階建ての家の屋根よりも高くそびえる針葉樹に、初めて都会に出た時に感じたものによく似た閉塞感を覚える。

 近隣に親戚がいると聞いていたが、少なくともこの家から視界が通る範囲に民家を見つけることはできない。

 この家は日中はともかく、夜にひとりで居るには寂しすぎる。


 言いつけられた通りにベッドの縁に腰を下ろして待っていると、彼女はその手に小さな四角い板を携えながら戻ってきた。

「おまたせしました。これです」

 これとはなんぞやと思ったが、聞くよりは見たほうが確実に早い。

「……ああ。確かに俺だ」

 思わず『俺』などと言ってしまったのは、その板――彼女が以前言っていた写真立てだろう――の中に写る人物の、高校当時の一人称がそれだったからだ。

「高一の体育祭の時だよ、これ」

 L版サイズの写真のほぼ中央で、琥珀色の西日に金色の頭髪を輝かせ、なぜか得意げな表情で親指を立てるみっともないガキ。

 それは間違いなく十年ほど前の私だった。

 私の左後ろでダブルピースをしている女子生徒は七菜で、その右後ろには苦笑いを浮かべる高畑の姿もあった。

 私にとってこの写真は、二度と戻れない青春を見事なまでに体現したものであり、しかし、それでいて決して気持ちのいい物ではなかった。

 この日に撮られた写真は百枚以上にのぼり、後日教室の後ろに貼り出されて希望者に販売されたはずだ。

 その中からこれを選んで飾ってあったのだから、茉千華ちゃんが私に疑念を抱いたのも無理はない。

「うちの学校って、この頃は金髪でもよかったんですか?」

 いつの間にか隣に腰を下ろしていた彼女が、写真立ての中の金色に指を置きながら悪戯な笑みを浮かべ聞いてくる。

 たぶん私は今、この十近くも年下の少女にからかわれているのだろう。

「あの時代はよかったんだよ。この写真の左右の二人に、あと君のお姉さんを含めた三人以外、当時はほぼ全校生徒が金髪だったから」

 だいぶ終わった学校を捏造してしまった。

「へえ。だったら私も金髪にしたかったな」

 それは本気とも冗談ともとれない口調だった。

「それは絶対ダメ。茉千華ちゃんは今のが似合ってるから」

「本当ですか?」

「うん。髪の毛きれいだし」

「やだ……もう。ヘンなこと言わないでください」

 変なことも何も、本当にそうなのだから仕方がない。


 着替えをしたいという彼女を家の外で待っていると、先ほど捕獲することのできなかった同級生の一人から折り返しの電話が掛かってきた。

 情報としては何も目新しいものはなかったし、なんなら今年の正月に開催された同窓会に顔を出さなかったことを咎められてしまった。

 いま話している元クラスメイトの女子は、在学中にも何度となく私のことを叱ってくれた有り難い存在だった。

 もっとも、当時の私はそれを少し煙たく感じており、今にして思えば恩知らずにも程がある。

『次はぜったいにきてね。みんな叶多君に会いたがってたよ?』

「うん、必ず。今日はありがとう……本当に」


 里山のマイナスイオンを頭の天辺からつま先まで浴びながら、彼女を待つこと十数分。

 彼女は白いワンピースをまとい、長く綺麗な黒髪を桃色のシュシュでハーフアップにしやってきたのだった。

 真夏の化身のような出で立ちをした少女を車の助手席に乗せると、夕方の色が染み出し始めた空の下を車は再び走り出す。

「茉千華ちゃん。僕もちょっと寄り道したいところがあるんだけどいいかな?」

 それはまったくの気まぐれであったかといえば、必ずしもそうではなかったかもしれない。

「あ、はい。ぜんぜんいいです」

「ちょっとだけ遠いんだけど。ここからだと一時間くらい掛かるかも」

「隣町ですか?」

「ううん。その隣の隣くらい」


 途中のコンビニでおにぎりやサンドイッチを購入し、それらを車内でぱくつきながら車を走らせること、ちょうどぴったり一時間。

 日の入りと時を同じくして、大きな汽水湖の湖畔にある目的地へと到着する。

「ここって」

 少女の黒く大きな瞳の中には、それよりも遥かに大きな観覧車が映り込んでいた。

「九時までやってるんだって。だからあと三時間くらいだけど」

「早く行きましょう!」

 少女の黒く大きく少しだけ潤んだ瞳の中に、今度ははにかみ顔の私が映り込んでいた。

 当初は彼女に二日間の寝床を提供しさえすれば、それだけで自分の中の良心を納得させることができたはずだった。

 ただ、彼女の抱える様々な悩みや苦しみを知ってしまったことで、私の中にあった欲求は次第に大きく膨れ上がっていった。

 少女の夏休みにひとつでも楽しい思い出を。

 それがランプの精が勝手に決めせさてもらった三つ目の願いだ。

「かなたさん! 早く早く!」

 もしかしたら今の私の心境というのは、小さな子を連れた父親の気持ちに近しいのかもしれない。

「そんなに急がなくても大丈夫だよ。小さい遊園地だから三時間もあれば大方のアトラクションには乗れるから」

「ダメです! ジェットコースターは最低でも三回のりたいから!」

 ……げ。

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