虫唾

 昨夜のいつごろ眠りに落ちたのかは覚えていないが、目が覚めたのは早朝と言っていいような時間だった。

 遮光カーテンのプリーツの隙間から漏れ入った陽の光が、今日という日が曇りでも雨でもないことを存分に知らせている。

 視線を少しだけ横にスライドさせると、そこにはすうすうと寝息を立て寝入る少女の姿があり、繋いだ手は今以て握られたままであった。

 彼女が自然に目を開けるまでこのままそっとしておきたいのは山々だが、私には朝のうちにやっつけておかなければいけない仕事がある。

 少女を起こしてしまわぬよう、小枝のように細い指を慎重に一本一本開いて縛から逃れる。

 互いに触れ合っていた肌の部分に流入した空気が、ほんの少しだけひんやりと感じられた。


 浴槽の掃除と洗濯を手早く終わらせると、仕事の連絡の有無を確認をするために居間の座卓でノートパソコンを展開する。

 仕事に必要な様々なアプリケーションがスタートアップに登録されているがゆえに、起動に少々の時間が掛かるのがこのパソコンの難点だ。

 OSが完全に立ち上がってしまいさえすれば動作に不満はないのだが、その長くも短くもない中途半端な時間が私は苦手であった。


 メールで受けた他部署からの確認や質問に返信をしていると、客間に繋がる廊下の奥から体操服の少女が音もなく現れた。

「……おはようございます」

 寝癖の付いた頭をちょこんと下げ、フラフラとした足取りでそのまま脱衣所へと消えていく少女。

 まさか洗面台で溺れるようなことはないとは思うが、生まれたてのゾンビを彷彿とさせるそのあまりに頼りのないに挙動に、せめて彼女が洗顔を終えるまでは見守ろうかと腰をあげた、その時だった。

 近年のゾンビ映画でよくいる、やたらと動きの速いタイプのゾンビと同等か、もしくはそれ以上の速度で戻ってきた彼女は、寝癖の髪をさらに逆立てながら叫び声を上げた。

「かなたさん! 脱衣所に下……洗濯物って落ち――」

「ああ。洗って干してあるよ。他にも何かあったら出しておいて。このあとに洗濯機もう一回まわすから」

 突如として床に突っ伏した彼女は体をプルプルと細かく震わせると、やがてピクリとも動かなくなってしまった。

「それって五体投地? 学校で流行ってるの?」

 いくら彼女が若いとはいえ、天高くお尻を掲げたその格好は如何にも腰に悪そうだ。

「……なんでもないです」

 修行の時間が終わったのか、それとも今の瞑想で悟りの境地に至ったのか。

 果たしてそのどちらなのかはわからないが、彼女はすっくと立ち上がると再び脱衣所の中へと戻っていった。

「あ、歯ブラシは鏡の裏にある使い捨てのやつ使って」

 返事は返ってこなかった。


 コンビニ弁当で遅めの朝食を済ませた頃には、真夏の太陽はほとんど真上から地表を照らしつけていた。

 夏休みの真っ只中だというのに体操服からセーラー服へと着替えた少女を車の助手席に座らせると、陽炎でゆらゆらと曲がりくねった直線道路をひた走る。

 行き先は彼女の家で、目的は着替えを手に入れること。

 ただ、その前に寄りたいところがあるというので、言われるがままにステアリングを右へ左へと操作する。


「すいません。三十分くらいで戻ってきます」

 運転席から走り去っていくセーラー服の少女を目で見送ったあと、ポケットからスマホを取り出しアドレス帳を開く。

 そこには元クラスメイト全員分の電話番号が収められている。

 可能であれば今日中に全員に連絡をして、水守さんの件について心当たりがないかどうかを聞きたいと、そう思っていた。

 まずは、あ行の最初にいる井口いぐちさんからだ。


「ありがとう。また何かわかったら教えてくれると助かります。うん、それじゃ」

 四十人いる元クラスメイトのうち三五人に電話を掛け、連絡が取れたのは半分以下の十七人だった。

 不通だったうちの八割ほどは電話に出ず、残りの二割はすでに電話番号が変わっていた。

 掛けていない五人のうち一人は藤田で、彼からは今日明日中に連絡がくることになっていたので除外した。

 残る四人のうち二人は、もうこの世には存在していない。

 もっとも、もしあの世にいる水守唯本人に聞くことができるのであれば、こんな苦労などせずに済んだのだったが。

 あとの二人とはもう、二度と連絡を取り合う機会など訪れはしないだろう。

 たった数回画面をタッチしただけの簡単な操作で、その思い出とともに彼女らの電話番号を消去した。


 シートに体を預けながら物思いに耽っていると、ふいに助手席のドアが大きく開かれた。

 真夏の熱気とともに車内に飛び込んできたセーラー服の少女は、額にうっすらと浮かべた汗にハンカチを当て、「ごめんなさい。お待たせしました」と言いながら制服のスカートを整えた。

「もっとゆっくりしてきてくれてもよかったのに。で、お母さんはどうだった?」

「はい。元気そうでした」

 わずかに陰らせた表情から大方の事情を察する。

「体の傷だったら一年あれば大抵は治るだろうけど、人間ってさ。心のほうはもうちょっと複雑にできてるんだよ。でも、絶対に大丈夫だから」

 それは自身の経験に基づいたもので、決して気休めで口にしたつもりはない。

「はい。ありがとうございます」

「それじゃ次の目的地は茉千華ちゃんの家でいい?」

「はい。お願いします」


 車が病院から離れるにつれ元気を取り戻した彼女は、まるで早朝のスズメたちのようによくさえずった。

 その内容はといえば、世代も性別も違う私には聞き慣れない用語も多く登場する難解なものだったが、そこには沈みかけていた空気を持ち上げようという、彼女なりの気遣いが痛いほどに感じられた。

 私は明日の午後には、この町を離れなければいけない。

 それは同時に、彼女からも距離を取るということになる。

 そうなることで、この少女がまた孤独になってしまわないかという考えが一瞬だけ脳裏をよぎった。

 しかし次の瞬間には、そのあまりの烏滸おこががましさに虫唾むしずが走る。

 私が彼女にしてあげたことといえば、少しばかり話相手になっただけに過ぎない。

 たったそれだけで、一丁前に保護者気取りをしていた自分に嫌気がさした。

「あの、どうかしましたか?」

 自分が苦虫を噛み潰したような顔をしていたことを知り、慌てて表情筋に司令を出して口角を思い切り上げる。

「あ、いや。ゆうべ食べたバーガーの塩辛が奥歯に引っかかってて」

 もう少しマシな嘘はなかったのかと自分に問い掛けながら、やや姿勢を正すと車を山の方角へ向け走らせた。

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