願い

「おかえりなさい。麦茶いりますか?」

「ありがとう。もらうよ」

 出会ってからの短時間で行われた応酬があまりに濃厚だったせいだろうか。

 たった半日の付き合いにして、随分とこなれたやり取りをできるまでになっていた。

「明日のお昼前にでも着替えを取りに行こっか」

「あ、はい。私もそれをお願いしようと思ってたんです」

「それじゃあ、そろそろ寝よう。さっき僕が寝ていた部屋に布団を出しておいたから」

 そう言って振り返ったのと同時に、さっそく「あの」と背後から呼び止められる。

「なに?」

「中原さんのお部屋はどこですか?」

「僕の部屋はこの家の離れにあるから。もし何かあったら電話してくれたらいいよ」

「わかりました。今日は本当にありがとうございました。おやすみなさい」


 締め切ったままにしてあった離れは、日中の熱気を存分に蓄えサウナの様相を呈していた。

 急いですべての窓を開放すると、室温よりも五度以上低い外気が流れ込んでくる。

 それでも若干蒸し暑かったが、今夜はちゃんと布団を掛けて寝るとしよう。

 壁から生える充電ケーブルにスマホを繋ぎ、部屋の照明を落として布団の上に横たわる。

 あとはこのまま意識を失い、翌日の朝までワープするだけとなった。


 遠くのほうでたまにヨタカやアオサギの声が聞こえる。

 それ以外でするのは自身が発するわずかな衣擦れの音だけの、とてもとても静かな夜だった。

 病床に伏せていたとはいえ、昼間のうちにじゅうぶん休まった脳と体がなかなか眠りに就いてくれない。

 彼女はもう布団の中にいるだろうか?

 知らない人間の家で一人で寝るというのは、どう考えても不安なことだろう。

 私だったら朝まで一睡もできないかもしれない。

 もし彼女が元同級生の妹ではなく、弟だったとしたら。

 果たして私はこんな気の使い方をせずにすんだのだろうか?

 それ以前に、リスクを負ってまで家に泊めることをしただろうか?

 答えは多分ノーだろう。

 相談に乗り話を聞くことまではしたかもしれないが、そのあとは親戚の家とやらまで送り届け、それで一件落着としたはずだ。

 相手の性別で流れを東西に分け隔てる分水嶺。

 それが私なのだった。

 別に下心があってそうするわけではない。

 そもそものところ、推定される彼女の年齢からしてそういった対象ではない。

 男と女は似て非なる別の生き物のようなものなのだ。

 昨今の価値観に照らし合わせれば、時代錯誤も甚だしいのは自分でもよくわかっている。

 なので敢えて自ら他人ひとに話すようなことはしないが、それはアダムとイヴの時代からの不変の理であると私は信じている。

 男という生き物は、女という生き物を守るために存在している――というのは、さすがに少し飛躍しすぎかもしれない。

 それでもやはり私は、助けを求めている女性を放っておくつもりなどさらさらない。

 男は……すまんが自力でなんとかしろ。


 そんなくだらないことを考えていると、どうにも用を足しに行きたくなってくる。

 この離れにもトイレはあるのだが、そこにたどり着くためには一旦外に出なければならず、冬などは億劫なことこの上ない。

 ベッドから起き上がり部屋の出入り口まで行くと靴を履き、木目プリントが施されたドアを外側に開く。

 その途端、「ひっ!」と悲鳴をあげてその場で尻もちをついた。


「急にドアが開いたからオバケかと思いました」

「それは奇遇だね。僕もついに視ちゃったと思ったよ」

 体操服を着た幽霊まがいの少女は私のベッドの上で膝を折り曲げると、両腕で抱え込んですねたような顔をする。

「用事があったなら電話してくれればいいのに」

「……別に用事とかではないんですけど」

 だとしたら何だというのだ。

 まさか幽霊が怖いという歳でもなかろうに。

「オバケがこわくて」


 結局たいした応酬も経ずに、母屋に戻って枕を並べることと相成った。

 それは先ほど考えていた自身の行動原理と照らし合わせた結果であり、同時にベッドの上で寝返りばかり繰り返すことに飽き飽きしていたこともある。

 十畳間の客室に五十センチの余白を設けて布団を並ると、常夜灯をともしてから体を横たえる。

 本来は窓を開け放って寝たほうが気持ちがいいくらいなのだが、女性ゲストが寝泊まりをしている関係上、今夜はエアコンに仕事をしてもらうことにした。


 左右についたルーバーが上に下にと絶え間なく動き、風向と風量を調整するその勤勉な様を眺めていると、すぐ横にいる少女から声が掛かった。

「中原さん。三つお願いしてもいいですか?」

 それはあまりに唐突な申し出ではあったが、何の考えもなしに「いいよ」と返す。

 ただ私は、絵本のランプの精ほど万能ではない。

 なので、その望みをすべて叶えてあげられるという保証はできない。

「ひとつ目は?」

「下のお名前で呼ばせてもらってもいいですか? 実は担任の先生が中原先生なので、なんかちょっとヘンな感じがして」

「中原先生って、今どきループタイを付けてる数学の?」

「あ、たぶんそうです。いつも首に紐みたいなのつけてるから」

「あの先生、まだいたんだ」

 私も在学中には彼に世話になったことがあった。

 終助詞の『ね』をあまりに多用する以外は、非常に良い先生だったと記憶している。

「かなたさんって、呼ばせてもっていいですか?」

「かなたん以外ならお好きなようにどうぞ。次は?」

「本当に迷惑だったら追い出してください」

「別に迷惑じゃないから」

 もっと言わせてもらえば、行くあてもないのに出ていかれるほうが私にとってはよほど迷惑だ。

「……ありがとうございます」

 彼女はとても聞き分けのいい子だった。

「それじゃなにかお礼をさせてください」

「それも却下」

 その申し出自体は嬉しいが、見返りを受け取ってしまっては今回の決断に至った理念から外れてしまう。

「なんでもいいです。おうちのお掃除でも犬のお散歩でも」

「掃除って言ってもここは僕の家ではあるけど実家だし。あと犬は飼ってない」

 ちなみにこれはどうでもいい話だが、その昔であれば柴犬のミックス犬を飼っていたことはある。

 名前はマリといい、とても気立てのいい女の子だった。

「……じゃあ、もういいです」

 彼女は小声でそう言うと、薄く形の良い唇を尖らせてむくれてしまった。

「せっかく三つ願いを叶えてくれるランプの精がいるんだから、全部使ったほうがお得だと思うよ。たとえば何か食べたいものがあるとか、畑を耕して欲しいとか」

「なんでもいいって、もう二回も断られてます」

 それは願い事を叶えるほうにも制約があるのだから仕方がない。

「あとうちに畑はないです」

 私も畑を耕した経験などは一度もなかったから、それはそれで何よりだった。


 彼女は一分ほどの沈黙を経てから、ようやく思いついたのであろう二つ目の願いを口にした。

「じゃあ、次のは絶対に叶えてくれますか?」

「それは願い事にもよる」

 重ね重ねになるが、ランプの精とて万能ではないのだ。

「……て」

「て?」

「繋いで寝てもらっても、いいですか?」

 今度は私のほうが沈黙する番だった。

 なぜならその願いは叶えられるものとそうでないものの、ちょうどぴったり真ん中あたりに位置していたからだ。

 どうしたものかと思案を巡らせている私の横で、彼女はとっとと布団をくっつけるとその上に再び横たわり、掛け布団の下からひょいと手を伸ばしてくる。

 薄暗い常夜灯の明かりの下にあって、その細い指の白さが際立って見えた。


 エアコンの室内機が発するわずかな風音だけが聞こえる部屋で、私は天井の木目に様々な表情の顔を探しながら眠りが訪れるのを待っていた。

「おねえちゃんが亡くなってからずっと、お母さんと一緒に寝ていたんです。子どもみたいですよね」

「……」

「かなたさんの手、お母さんのよりもずっと大きいです」

「まあ、これでも男だから」

 彼女の小さな手は、陶器の滑らかさと下ろしたてのタオルの柔らかさが同居していた。 

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