快復

 常闇の只中で目が覚めた。

 日などはとうに暮れてしまったのだろう。

 入眠前には感じていた、発熱由来の悪寒がなくなっている。

 それだけではなく、体中の関節の痛みもなければ頭痛もしない。

 意識を失う直前に感じたのは、顔に掛けられた濡れタオルの気持ちよさだった。

 あれが私の体から熱と苦痛を奪い取ってくれたのだろうか。

 だとすれば彼女に、茉千華ちゃんには感謝しなければならない。

 そう思った途端、口から自然と言葉が漏れて出た。

「……茉千華ちゃん、ありがとう」

「いいえ。どういたしまして」

「……え」

 声の主の手により、顔に掛かっていた漆黒が取り払われる。

 すると一瞬前よりわずかに明るい闇の中に、もはやよく知った存在となった少女のシルエットが浮かび上がっていた。

 天井のペンダントライトの紐が彼女によって引かれると、黒色と灰色のコントラストだけで表現されていた世界に、色彩という新たな概念が取り入れられる。

 布団から起き上がり、その中心であぐらをかいて凝り固まっていた腕を上下に動かす。

 体が軽い。

 どうやら風邪は本格的に治ってしまったようだ。


 件の少女はといえば、一メートルほど離れた畳の上に正座したまま、黒く大きな瞳でこちらをじっと見つめていた。

「体調はどうですか?」

「お陰さまで良くなったみたい。まだ本調子とまでは言えないけど」

「それならよかったです」

 そう言って安堵の表情を浮かべた少女だったが、私にしてみればそれで『めでたしめでたし』というわけにもいかなかった。

「茉千華ちゃん、さっき一度帰ったよね?」

「これを買いに行ってました」

 傍らからスポーツ飲料のペットボトルを取り出した彼女は、「えいっ!」と掛け声を上げながらキャップを回した。

「どうぞ」

「……ありがとう」

 常温のスポーツ飲料を飲むのは中学の部活動の時以来かもしれない。

 ごくごくと喉を鳴らしながら、それこそあっという間に飲み干してしまった。

「ごちそうさま。で、今って何時かわかる?」

「えっと……八時になるところです」

 駄目じゃん。

「駄目じゃん」

 頭の中と口に出しての二回、まったく同じ言葉を繰り返す。

「これを買ってきてくれたのはありがとう。すごく美味しかった。でも、なんで帰らなかったの?」

「中原さんの家族のかたは北海道なんですよね?」

「まあ、そのはずだけど」

 時間的にもカニか何かを食っている最中だろう。

「病気の人をひとりにできないです」

 どうやら質問の仕方が悪かったようだ。

「そうじゃなくて。もう時間が時間だよ。お家の人も心配してるでしょ?」

「平気です。お友達のところにお泊りするって、さっき電話しておいたので」

 返した刀が虚しく空を切り、その切先が危うく自分の足に突き刺さりそうになる。

「着替えてくるから待ってて。車で送ってくよ」

 それは数時間前とまったく同じ台詞だったが、先ほどとは違い今度はしっかりと立ち上がることができた。

「ダメです! よくなったっていってもまだ病み上がりなんだから!」

 この手のやり取りで彼女に勝てないことは、今日という一日でとてもよく理解できていた。

 ならば勝負をしなければいい。

「すぐに戻ってくるから」

 逃げるが勝ちとばかりにそう言い残し、離れにある自室へと早歩きで向かう。


 たった三分ほどで支度を済ませて母屋に戻ると、さっきまでそこにいたはずの少女の姿が見当たらない。

「あれ? 茉千華ちゃん?」

 居間や台所には灯りがついていないし、トイレを使っている様子もない。

 まさか歩いて帰ってしまったのだろうか?

 この町がいくら田舎だとはいえ熊が出るようなことはないだろうが、カモシカくらいなら出るかもしれない。

 それに十代の女の子が一人で出歩くには些か灯りが少なすぎる。

 すぐに車で追いかけようと思ったが、広い道を選んで歩いているとも限らない。

 ならば電話を掛けてみるかと、履歴の一番上の番号をタップする。


 一度目のコールで彼女は電話に出てくれた。

「あ、もしもし茉千華ちゃん?」

『はい』

「今どこにいるの?」

『それは言えません』

 子供かよと心のなかで毒づくが、よく考えると彼女は普通にその子供だった。

「どこにいるのか教えてよ」

『そのまえに私の話、聞いてもらえますか?』

 それにしても電話が遠い。

 電波状況が悪いというより、意図的に彼女が小声で話しているような気がする。

「話を聞いたらどこにいるか教えてくれる?」

『はい』

「わかった、聞くよ。その代わり手短にね」

『「はい』」

 左右の耳から同時に声が聞こえ、思わず「ひゃいっ!」と意味のわからない悲鳴をあげてしまう。

 振り返ると手を伸ばせば届きそうなほどの超至近距離に、スマホを顔に当てたままの少女が立っていた。

「え? ずっとそこにいた?」

「はい。中原さんが向こうのおうちから帰ってきて玄関を上がってから、ずっと後ろをついて歩いてました」

「……まったく気づかなかった」

 やはり今夜はさっさと床に就いたほうがいいようだ。

 ただしその前に、今したばかりの約束を果たさなければいけない。

 でなければきっと、彼女はテコでも油圧ジャッキでも動かないだろう。

 勘のあまり良くない私であったが、この予感に限っては当たっているという自信があった。

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