重篤
水守さんがもし本当に、私に好意を寄せてくれていたのだとしても。
たとえそうだとしても、やはり彼女が遺した『死んだ恋人に会いにいく』という言葉とは繋がらない。
それとも最初に感じたように、やはりあれはメッセージではなく、詩のような性質のものだったのだろうか?
普段にも増して頭の回転が鈍っている今の私に、こんな難題が解けるはずもない。
少女はおもむろに顔を上げると、その小さく形の良い唇を開いた。
「私はただ、知りたいだけなんです」
八月という季節から切り離されたかのように白く透き通る肌と、よく磨かれた黒曜石を思わせる大きな瞳。
日に日に薄れつつあった記憶の中にある女子生徒と、いま私の目の前にいる少女の姿とがオーバーラップする。
「おねえちゃんがそんなにも想っていた相手のひとの顔と名前くらい、ちゃんと知りたかったんです」
この少女がそんな容姿なのだから、同じ姿形をしていた姉も同様だったはずだ。
私が覚えている限りでは、水守唯が男子生の羨望を集めていたというようなことはなかった。
それはすなわち、うちの学校の男どもの目が節穴だったということで、無論そこには当時の私も含まれている。
「そんなことをしても意味がないのはわかってます。それでも……」
気がつくと少女の頬が涙で濡れていた。
どうやら彼女の話を上の空で聞いてしまっていたようだ。
そのディティールまでは思い出せないが、姉に対する思いを語っていたことだけはなんとなくわかった。
熱で意識が混濁していたせいもあったが、まるで真鍮で拵えられた風鈴の音色のような少女の声が心地よかったというのもある。
女性の涙など見たくもないのに、私はこの一年で一体どれほどのそれを見てきたのだろう。
いずれにせよ見てしまったからには、目の前の少女を捨て置くという選択肢はあり得なかった。
何も難しく考えるようなことはない。
私にできる範囲内で、できる限りのことをすればいいだけなのだ。
幼稚園児だったとき、遠足で行ったアスレチックで同級生にそうしたように。
中学生だった時分、自転車を漕ぎ姉妹を家まで送り届けた時のように。
「水守さん」
「マチカです。草冠に末、漢数字の千、難しいほうの華で、
茉千華とは彼女によく似合う、とても美しい名前だと思った。
「茉千華さん」
「呼び捨てでいいです。それか『茉千華ちゃん』がいいです」
私は女性のことを『ちゃん付け』で呼ぶことに強い抵抗があった。
それは小学校低学年の頃、仲の良かった女の子を『ちゃん付け』で呼んでいたのを男友達にからかわれたからだ。
まあ、誰に聞かれるわけでもないし、いつまでもそんな微小なトラウマを引きずっていても仕方がない。
「茉千華ちゃん。僕は明後日の昼過ぎまではこっちにいるから、知り合いに何か知っていないかそれとなく聞いてみるよ。もし何かわかったことがあれば教えるから」
「……ありがとうございます」
彼女は笑顔こそ見せはしなかったが、その表情は今まで見た中では格段に明るかった。
「お飲み物いただきます」
「どうぞ。ところで茉千華ちゃんは今日、どうやってここまで来たの?」
コキュコキュと喉を鳴らしながらオレンジジュースを一気飲みした彼女は、グラスの縁に付いた口の跡を親指の腹でなぞり消しながら、さも平然と「歩いて来ました」と口にする。
「歩いてって、家から?」
「あ、違います。今日は午前中、部活だったから」
それでセーラー服を着ていたのか。
「学校からここまで?」
「一時間くらいかかりました」
春や秋の晴れた日であれば、散歩にちょうどいいくらいかもしれないが、真夏の昼間に歩くには少し距離がある。
「車で送るよ」
「あ……いえ、あの――」
「ちょうど買い物に行こうと思ってたんだ。君の家のほうだからついでに乗ってきなよ」
うっかり台詞のチョイスを間違えてたことで、すっかりステレオタイプ的不審者になってしまう。
「じゃあ……お願いします」
自分で言っておいてあれだが、少女の防犯意識の低さに一抹の不安を覚えた。
車から降りないにせよ、着替えていったほうがいいだろう。
もし彼女のご家族やご近所さんに見られでもしたら、それこそ不審人物として然るべき機関に通報されかねない。
「ごめん。着替えてくるから少し待ってて」
そう言ってから座卓に手を掛け立ち上が――れなかった。
床についた手で自らの体重を支えることすら叶わず、前のめりになると柔道の受け身を失敗した時のような不格好さで畳の上に転がる。
すっかり忘れていたが、今日の私は朝から絶賛病人中だった。
「あっ! 大丈夫ですか?」
「いや、実は今朝から体調が悪くて。でも平気だから」
今しがた無様にすっ転んでおいて、一体どの口が言っているのだろう。
本当のことをいえば、このまま畳の上に転がっていたかった。
だがどう考えても、今はそれが許される状況ではない。
再び、今度は両手を使って起き上が――れなかった。
「……やっぱり送っていけないかも。ごめん」
「そんなことなんてどうでも……。あの、中原さんのお部屋ってどこですか?」
彼女は懸命に私のことを抱き起こそうとしてくれたのだが、おそらく身長の差で二〇センチ以上、体重の差は――それはわからないが、とにかくどうすることもできず、結局はカメのように床を這いつくばって、どうにかこうにか寝床まで戻ることができた。
「ちょっとフラフラするだけで頭ははっきりしてるんだけど……本当にごめんね」
「だからそれは全然いいです。あの、おうちのかたは?」
「北海道」
「え?」
「北海道に旅行に行ってる。明後日の夜に帰ってくるらしい」
もし詳細な日程を知りたければ、冷蔵庫の扉を見てきてくれればいい。
あの人たちは今頃きっと、カニかイクラかシャケかホタテかウニか何かに舌鼓を打っているはずだ。
それに比べて私はといえば、ただひたすらに惨めだった。
こんなことになるのなら、やはり昨夜のうちにこの呪われた町を出ておけばよかったとさえ思う。
「じゃあ、あの。他に誰か親戚のかたとかお友達のかたとか……彼女さんとか」
「親戚はいないし友達もいないし、残念ながら彼女もいない」
今のは『近所に親戚がいる』とか『もうすぐ彼女が来てくれる』とか、とにかく嘘をつくのが正解だったかもしれない。
あともう一つ、『友達はいるけど連絡がつきそうな奴はいない』が正しかった。
地元に友達がひとりもいないと思われるのは、さすがに悲しすぎる。
「じゃあ、えっと……」
ほらみたことか、彼女をすっかり困らせてしまったではないか。
「お医者さんには行きましたか?」
「そんな大げさなことじゃなし、お盆でやってないだろうし。それにもう大丈夫だから」
「お薬はのみましたか?」
「さっきのんだよ。それにもう大丈夫だから」
「ご飯は食べましたか?」
「ちゃんと食べたよ。それにもう大丈夫だから」
「じゃあ大人しく寝ていてください」
「そ……はい」
当初はそういった予定だったのだが、急な来客に応対した結果が今のこの様である。
「あ、タオルってあります?」
「台所の奥の脱衣所の洗濯機の右側の棚の中段にあったと思う」
体調の悪さゆえか日本語が破綻してしまった。
彼女はシュタっと立ち上がるとシュタタと脱衣所へと向かい、すぐにシュタタタと戻ってくる。
「お布団が濡れちゃうから動かないでくださいね」
そう言って濡れタオルを私の額の上に乗せてくれた。
この家のどこかには、私が子供の頃に熱を出すと使っていた氷嚢があったはずだ。
だが、それがどこにあるのかはわからかったし、なんなら顔を拭ける分タオルのほうがありがたかった。
「ありがとう」
「いえ。こんなことしかできなくてごめんなさい」
こんなことしかなんて、そんなことあるわけがない。
「茉千華ちゃんはきっと将来、いいお母さんになると思うよ」
「お母さん……ですか?」
私という奴は一体なにを言っているのだ?
どうやら自分で思っているよりも重篤なのかもしれない。
いよいよ寝てしまったほうがいいようだ。
「ごめんなんでもない。少し寝させてもらうね」
「あ、はい。おやすみなさい」
少女はそう言うと音もなく立ち上がり、小さく会釈をしてから玄関のほうへと去っていった。
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