覚悟

 今がいくら真夏だとはいえ、広縁でパンツ一丁で寝るのは馬鹿のすることだ。

 そして私こそがその馬鹿である。


 目覚めと同時に激しい頭痛と関節痛に襲われ、『ああこれは』と直感した。

 古の記憶を頼りに居間のテレビボードの下から薬箱を発掘し、台所で手のひらに掬った水で粉薬を服用する。

 朝餉を探して飛び回るスズメたちの鳴き声を遠くに聞きながら、脇から取り出した体温計の液晶画面に目を落とすと、3のあとに8が二つ隊列を組んでいた。

「またガッツリと」

 嫌っている相手が自ら出ていこうと言っているのに、この町は一体どういうつもりなのだ。

 と、一瞬だけ思ってしまったが、この件に関しては完膚なきまでに自業自得なのであった。

 幸いにも休日は今日を含めてあと三日もある。

 不本意だがもう一日ばかりこの家に滞在し、体調を万全にしてから昨日行けなかった墓参りをして帰ることにしよう。


 そうと決まればあとはもう寝るだけだった。

 旅行かばんからスウェットのズボンを引っ張り出すと足を通し、昨夜スーパーで入手しておいた弁当で滋養をつける。

 水分の補給にスポーツドリンクが欲しかったのだが、自販機という文明の利器にお目に掛かるには車を走らせる必要があった。

 作り置きの麦茶で我慢するしかないだろう。

 離れの自室で寝てもよかったが、家中の戸締まりをする気力と体力が惜しかったので、客間の押し入れから布団を一組取り出し冬用の毛布に包まった。


 たかが風邪の発熱で寝ているだけなのに、この家の静かさは結核療養のサナトリウムにでもいるような不安な気分にさせてくれる。

 そのせいか、一昨日の夜に考えていたようなどうしようもなく惨めな思考が、追い払っても追い払ってもブンブンと音を立てて頭の上を飛び交う。

 それは一見にして哲学ようで、その実とてもリアルな点が悪質だった。

 スマホで漫画でも読もうかと思ったが、200グラムにも満たない板すら重く感じて断念する。

「……寝よう」

 そうすればきっと、次にまぶたを開いた時には薬の力で今よりも楽になっているはずだ。

 そして一刻も早く都会の自宅に帰ろう。


 天井板の木目に顔のような模様を探しているうちに、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 次に気がつくと、窓から差し込む陽の角度が若干低くなっていた。

 先ほどまでの私は昼前の時間を生きていたのだから、太陽が気まぐれに高度を上げ下げしているのでなければ、今が午後だということだけは間違いない。

 再び目を閉じれば、さらにもう数時間はワープできるような気がしたが、その前に済ませておかねばならないことがあった。

 立ち上がろうとすると頭の芯が激しく痛んだが、頭痛は気合で我慢できても尿意のほうはそれほどに甘くはない。


 用を済ませて客間に戻ると、枕の横で添い寝させていたスマホがちょうどのタイミングで画面を点した。

 ディスプレイには名前ではなく、見覚えのあるような無いような番号が表示されている。

「……またあの子か」

 さすがの私も三度目はないと心を鬼にし、ブルブルと震えながら電子音を響かせるそれの上に枕を置いて蓋をした。

 五回、六回と鳴り続けたそれだったが、十回目のコールでようやく沈黙する。

 すると今度は、ドアフォンのチャイムがけたたましく鳴り響いたではないか。

 応対すべきなのは承知しているが、今の私にとって玄関までの道のりは十万億土の彼方に等しい。

 よって居留守を使う決意をしたのだったが、次の瞬間にはこの客間から玄関が見通せることを思い出す。

 それはすなわち玄関あちらからもこちらがよく見えるということで。

 玄関のある方向にゆっくり顔を向けると、ドアホンの前に立った人物とばっちり目が合ってしまった。


「あの……本当にすいませんでした」

 白いセーラー服の少女は深々と頭を下げた。

 それに合わせて絹糸のような黒髪が、山奥の清流を思わせる滑らかさで体の前に垂れ落ちる。

「わざわざそんなことを言いに来てくれたの?」

 顔を持ち上げた少女の目は、赤く充血しているようにも見えた。

「昨夜あのあと朝まで考えてて。それで後悔してたんです。中原さんにひどいことを言っちゃったって」

 それはまあ実際その通りだったかもしれない。

 ただ、彼女が私に押し付けようとした理不尽は、姉を思う気持ちとその年齢わかさゆえのことだというのは私も理解していた。

 それを踏まえた上で、大人気ない対応をした私にも非はあったように思う。

 若干ではあったが。

「こちらこそ昨日はごめん。発信履歴や写真のことから推測したら、君がそう思ったのも無理はないよ」

 それでも私が今こうして生きている以上、最前提である『死んだ』の部分に当てはまらないのだが。

 もっともこのまま彼女と長話でもしようものなら、後付けながらにその条件を満たしてしまいそうではあった。

 彼女の姉との数少ない思い出話でも聞かせて、早いところ帰ってもらおう。

「とりあえず、こんなところだとあれだから――」

「……えぅっ」

 私の思い描いた青写真は、わずか一秒後には儚くも破れ去ってしまった。


 さめざめと泣く少女を居間までエスコートし座布団の上に座らせる。

 冷蔵庫の中に一本だけあったオレンジジュースのペットボトルは、おそらくは父のものだろう。

 なぜなら母は茶の付く飲み物しか摂取しない生き物だったからだ。

 余り見かけない銘柄のそれをグラスに注いで彼女に出し、ついでに茶箪笥の上にあったティッシュのボックスもその横に置くと、私自身の体は座卓の反対側に持っていく。

 そして可能な限り穏やかな口調で少女に話し掛けた。

「聞いてもいいかな? 水守さんはなんでお姉さんの恋人って人のことを知りたいの?」

 それは初対面に等しい相手にするような質問ではなかったし、そもそも他人が立ち入っていい領分ですらないように思う。

 しかし私が少女にしてやれることといえば、まさにその禁忌の内側に覚悟を決めて足を踏み入れることくらいしかない。


 声が届いていないということはないと思うが、彼女は長い髪をすだれのように垂らしたまま、肩を細かく震わせたままでいた。

 ならばと、不躾なのは承知でこちらから一方的に話を続けた。

「お姉さんのお通夜に顔を出させてもらった連中はみんな同級生なんだけど。やっぱり、どうしてもその話になってね。でも、誰も何も知らないみたいだった」

 在学中は女子グループの中心にいた芝川さんでさえそうだったのだから、もし件の恋人がいたとすれば、それは高校卒業後に交際を始めた相手なのだろう。

「お姉さんのスマホに僕の番号が残っていた理由はわからない。ただ連絡先は同級生全員で共有していたから、何か用事があって電話を掛けようとして、それで繋がる前に切ってを繰り返したのかもしれない」

 もしそうだとしたら、その相手が私であった理由がわからない。

 自身で持ち出した仮説ではあったが、その説得力は若干弱いような気もする。

「写真のことは本当にわからない。ゆうべ電話でも言ったけど、僕とお姉さんはあまり親しいとはいえない間柄だったから」

 それが唯一の真実であり、実際に心当たりもなかった。

 だが、世間一般的なものの考え方をするのであれば――。

「……もしかしたらおねえちゃん、中原さんのことが好きだったのかもしれないです」

 まあ、そういうことになるのだろう。

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