呪詛

 少し奥にいけば木陰があるにも関わらず、寺院の入口に近いからという理由で炎天下に駐車していた車は、ドアを開けた途端にその開口部から中東の砂漠を思わせる高温の空気を吐き出した。

 仕方なくドアというドア、窓という窓をすべて開け放ち空気を入れ替えを行っていると、白色のミニバンがハイブリッド車特有の不気味な接近音を伴いながら進入してくるのが見えた。

 邪魔になってはまずいと思い慌てて自車のドアを閉めたのだが、件のミニバンは二台分離れた場所にバックで駐車した。

 何気なしにその方向に目をやっていた私は、後部のスライドドアから出てきた人物の姿を目にした瞬間、去年の夏にもそうであったように、心のなかで大きな声をあげてしまった。


 白い夏服のセーラー服を着て、長く綺麗な黒髪をハーフアップにした少女は、恐らく元同級生の妹であり、その名を――なんと言っただろう?

 とにかく、出棺の日に両手の甲で涙を拭い、その夜に私に電話を掛けてきたあの少女であることだけは間違いない。

 一周忌の法要にしてはわずかに時期が遅いし、少女以外の親族は平服を着ているので、たぶん盆の墓参りなのだろう。

 私にとって彼の人たちの動向などはもはや彼岸の出来事なのだが、心残りがあるとすれば、少女の名前を思い出せないことだった。

 もっとも、そんなどうでもいいことを確認するために話しかけるほど、私は非常識でもなければもの好きでもない。

 自然な動きで運転席に乗り込むと、シートベルトも着けぬまま車を発進させた。


 遅い昼食と買い物を済ませてから帰宅すると、日が完全に落ちきるまでに期限を切って仕事に精を出すことにした。

 家中の開け放った窓から入ってくる八月の風により、紙の資料が何度も何度も宙に舞ってしまう。

 それでもエアコンの風にはない心地よさを捨てられない私は、そのたびに座布団から腰を上げて散らばったそれらを拾い集めて作業に戻った。

 そんなことを二時間もしているうちに、いつの間にか終業を予定していた日没を迎えていた。


 ほんのさっきまで、この町でいちばん騒がしい男といたせいだろうか。

 夜の訪れとともに、急に寂しいような気分になってくる。

 彼はいま頃きっと、妻子や親族たちと酒盛りをしているのだろう。

 昔から親戚の少ない私だが、いつだったかお盆に友人の家で行われたバーベキューに呼ばれた時は、本当に賑やかで楽しかったことを思い出す。

 そういえば旅行に出ている父と母は、北海道のどのあたりでどんなものに舌鼓を打っているのだろうか。

 数日前の夜、電話で母に『お土産、カニとイクラどっちがいい?』と聞かれたが、現地で食べるそれらはさぞ格別であろう。


 自分ひとりが入るために風呂を沸かし、自分ひとり分の弁当を電子レンジで温め、自分ひとりしかいない居間で面白くもないテレビを観ていると、唯一の相棒であるスマホまでもがいつの間にかいなくなっていたことに気づく。

 最後にその姿を見かけたのは風呂に入る直前だったので、服を脱ぐ時に洗濯機の上に置き去りにしてきたのかもしれない。

 酒を吸い重くなった体に鞭を打って立ち上がり、先にトイレに寄ってから真っ暗な脱衣所へと足を踏み入れる。

 明かりをつけようと手探りで壁のスイッチを探していると、暗闇の中で赤いランプがチカチカと点滅を繰り返しているのが見えた。

 ようやく探し当てたスイッチで照らし出された洗濯機の上には、主人に忘れられていたことさえ気づけずに、健気に着信を報せ続ける可哀想な彼がいた。

 物言わぬ小さな板に、心の中で労いの言葉を掛けつつ画面を覗き込むと、070から始まる見知らぬ番号から数件の着信が入っていた。

 迷惑電話の類かとも思ったが、仕事関係の電話の可能性がある以上は無視を決め込むというわけにもいかなかった。


 一旦居間まで引き上げ、念のためにメモを用意してから電話を折り返す。

 すると、たった一度のコールで繋がった途端に、電話口から『ごめんなさい』と謝罪の言葉が飛んできた。

 こちらから掛けている以上、間違い電話というわけではあるまい。

 そもそもそれならば、謝るべきは発信元の私のほうである。

「先ほどお電話をいただいた中原と申します。大変失礼ですが、どなた様でしょうか?」

 妙に丁寧な言葉を選んで使っているのは、電話口の相手が仕事関係の人間だった時のためだ。

『……水守です。水守唯の妹の、マチカです』

 ああ、そうだった。

 言われてみれば、彼女は確かにそんな名前でこんな声をしていたのだった。

「水守さん? えっと、何度かお電話して頂いていたみたいだけど」

 亡くなった同級生の妹が私に用事があるとすれば、それは一体なんだろうか?

 まさかまた、『あなたがおねえちゃんの恋人ですか?』などと言い出すつもりなのか?

『今日のお昼すぎ、お寺にいませんでしたか?』

 やはりあれは彼女だったのか。

「ああ、はい。知り合いの法事があったので」

 今までにない関係性の相手との会話ゆえに、適切な言葉遣いを決めることができず気持ちが悪い。

『やっぱり』

「やっぱり?」

『それで電話しました』

「はい?」

『はい』

 ……はい?

「ごめんなさい。話が見えないんだけど……」

 この質問で『察しの悪いやつ』と思われたとしたら、それは大変に心外だった。

 彼女は寺院の駐車場で私を見かけたという。

 ここまではいい。

 だから電話をしたと言った。

 もう意味がわからない。

「お寺で僕のことを見かけたのはわかったけど、それでなぜ僕に電話を?」

『おねえちゃんのお部屋のフォトフレームにあなたの写真が飾ってありました』

「僕の?」

『はい。髪の毛の色が今と違うけど、ぜったいに中原さんだと思います』

 もし彼女が嘘を言っているのでなければ、それは本当に僕なのだろう。

 あの当時、高校で髪を派手に染めていたのは僕と藤田くらいのものだった。

 どちらかといえば醤油顔の僕と、どちらかといわずともゴリラ顔の藤田を見間違えるというのはあまりにも考えにくい。

『もう一度だけ、聞いてもいいですか?』

「……どうぞ」

『あなたが――中原さんがおねえちゃんの恋人ですよね?』

 受話口から聞こえてくる少女の声色に、若干の怒気が混ざっているような気がした。

 きっと彼女はこの一年間、ずっと姉の恋人を探し続けていたのだろう。

 去年の夏、亡くなった姉のスマートフォンの発信履歴に私の名前を見つけ、部屋にあった写真立ての中に恋人と思しき男の姿を見つけた。

 そしてついに今日、そいつの容姿を見て確信した。

 多分、そんなところなのではないだろうか。

「前も言ったけど違うよ。あなたのお姉さんとは恋人どころか、まともに話した記憶も数えるほどしかないんだから」

『じゃあ、なんでですか?』

「なんでって言われても……それはわからないけど」

 そうとしか答えようがなかった。


 この子にしてみれば、まさに私こそが渦中の人物だと考えているのだろう。

 しかし私は言ってしまえば、他所の県で発生した災害をテレビ越しに観ているような、ただただ無責任なだけの傍観者でしかないのだ。

 彼女の欲する答えを知っている人間がいるとすれば、すでにこの世界からいなくなってしまった君の姉と、本当に存在するかすらわからない、その『死んだ恋人』とやらだけだ。

 それに、もし仮に私が少女の姉の恋人だったとしたら、彼女は『姉が死んだのはあなたのせいだ』とでも言うつもりなのだろうか?

 そこにはどんな根拠があり、それをしたところで何になるというのか?


「もし僕が嘘を言っていると思うのなら、お姉さんのスマホの連絡帳に名前のある他の同級生の人たちに聞いてみるといいよ。それじゃ」

 通話終了のボタンをフリックし、そのままスマホの電源も落とす。

「クソッ!」

 自らの口から発せられた汚い言葉で不快な気分が励起される。

 少女のこともその姉のことも、本当に気の毒だとは思う。

 それゆえに、そんな彼女らに対して苛つきを感じている自分に嫌気が差す。

 藤田には申し訳ないが、明日の朝一番にここを去ろう。

 たぶんというかやはりというか、私はこの町に嫌われているのだろうから。

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