呪詛
少し奥にいけば木陰があるにも関わらず、寺院の入口に近いからという理由で炎天下に駐車していた車は、ドアを開けた途端にその開口部から中東の砂漠を思わせる極高温の空気を吐き出した。
ドアというドア、窓という窓のすべてを開け放ち空気を入れ替えていると、白色のミニバンがハイブリッド車特有の不気味な接近音を伴いながら進入してくるのが見えた。
何気なしにその動向に目を向けていた私は、後部のスライドドアから出てきた人物の姿を目にした瞬間、去年の夏にもそうであったように心のなかで大きな声をあげてしまった。
白い夏服のセーラー服を着て、長い黒髪をハーフアップにした少女は、恐らく元同級生の妹であり、その名を――なんと言ったか?
とにかく出棺の日に両手の甲で涙を拭い、その夜に私に電話を掛けてきたあの少女で間違いない。
一周忌の法要にしてはわずかに時期が遅いし、彼女以外の大人たちは平服を着ていることから盆の墓参りなのだろう。
もっとも私にとって彼の人たちの動向などは、もはや彼岸の出来事でしかない。
もし心残りがあるとすれば、少女の名前を思い出せないことだろうか。
そんなどうでもいいことを確認するために話しかけるほど、非常識でもなければもの好きでもなかった私は、自然な動きで運転席に乗り込むとシートベルトも着けぬまま車を発進させた。
昼食と買い物を済ませてから帰宅すると、日が完全に落ちきるまでに期限を切り、持ち帰っていた仕事に手を付けた。
開け放った窓から入ってくる緑色の風により、紙の資料が幾度となく宙を舞ってしまう。
それでもその心地よさを諦めきれない私は、そのたびに座布団から腰を上げて散らばった紙を拾い集めると作業に戻った。
そんなことを二時間もしているうちに、いつの間にか終業を予定していた日没を迎える。
ほんのついさっきまで、この町でいちばん騒がしい男といたせいだろう。
夜の訪れとともに、急にもの寂しいような気分になってくる。
彼はいま頃きっと、親族たちと酒盛りをしている頃だろうか。
昔から親戚の少ない私だが、いつだったかのお盆に友人の家で行われたバーベキューに呼ばれた時は、本当に賑やかで楽しかったことを思い出す。
そういえば旅行に出ている父と母は、北海道のどのあたりで、どんなものに舌鼓を打っているのだろう。
数日前の夜、電話で母に『お土産、カニとイクラどっちがいい?』と聞かれたが、現地で食べるそれらはさぞ格別であろう。
自分ひとりが入るために風呂を沸かし、自分ひとり分の弁当を電子レンジで温め、自分ひとりしかいない居間で面白くもないテレビを観ていると、唯一の相棒であるスマホまでもがいつの間にかいなくなっていたことに気づく。
最後にその姿を見かけたのは風呂に入る直前だった。
洗濯機の上にでも置き去りにしてきたのかもしれない。
酒を吸い重くなった体に鞭を打って立ち上がり、トイレに寄ってから真っ暗な脱衣所へと足を踏み入れる。
壁のスイッチを手探りで探していると、暗闇の中で赤いランプがチカチカと点滅を繰り返しているのが見えた。
ようやく探し当てたスイッチで照らし出された洗濯機の上には、主人に忘れられていたことさえ気づけずに、健気に着信を報せ続ける可哀想な彼がいた。
物言わぬ小さな板を労いつつ画面を覗き込むと、070から始まる見知らぬ番号から数件の着信が入っていた。
迷惑電話の類かとも思ったが、仕事関係の電話の可能性がある以上、無視を決め込むというわけにもいかなかった。
一旦居間まで引き上げ、念のためにメモを用意してから電話を折り返す。
すると、たった一度のコールで繋がった途端に、電話口から『ごめんなさい』と謝罪の言葉が飛んできた。
こちらから掛け直したのだから間違い電話というわけではあるまい。
そもそもそれならば、謝るべきは発信元のこちらのほうである。
「先ほどお電話をいただいた中原と申します。大変恐縮なのですが、どちら様でしょうか?」
『……水守です。唯の妹の、マチカです』
ああ、そうだった。
言われてみれば彼女は確かにそんな名前で、こんな声をしていたのだった。
亡くなった同級生の妹が私に用事があるとすれば、それは一体なんだろうか?
まさかまた、『あなたがおねえちゃんの恋人ですか?』などと言い出すつもりではあるまい。
「えっと、何度かお電話して頂いていたみたいだけど」
『今日のお昼すぎ、お寺にいませんでしたか?』
やはりあれは彼女だったのか。
「ああ、はい。知り合いの法事があったので」
今までにない関係性の相手との会話ゆえに、適当な言葉遣いを見つけることができず気持ちが悪い。
『やっぱり』
「やっぱり?」
『それで電話しました』
「はい?」
『はい』
……はい?
「水守さん、ごめんなさい。ちょっと話が見えないんだけど」
この質問で『察しの悪いやつ』と思われたとしたら、それは大変に心外だった。
彼女は寺院の駐車場で私を見かけたという。
ここまではいい。
だから電話をしたとも言った。
もう意味がわからない。
「お寺で僕のことを見かけたのはわかったけど、それでなぜ僕に電話を?」
『おねえちゃんのお部屋のフォトフレームにあなたの写真が飾ってありました』
「僕の?」
『はい。髪の毛の色が今と違うけど、たぶん中原さんだと思います』
もし彼女が嘘を言っているのでなければ、それは本当に私だったのだろう。
あの当時、高校で髪を派手に染めていたのは私と藤田くらいのものだった。
どちらかといえば醤油顔の私と、どちらかといわずともゴリラ顔の藤田を見間違えるというのは考えにくい。
『もう一度だけ聞いてもいいですか?』
「……どうぞ」
『あなたが、中原さんがおねえちゃんの恋人ですよね?』
受話口から聞こえてくる少女の声色に、若干の怒気が混ざっているような気がした。
きっと彼女はこの一年間、ずっと姉の恋人を探し続けていたのだろう。
去年の夏、亡くなった姉のスマートフォンの発信履歴に私の名前を見つけ、部屋にあった写真立ての中に恋人と思しき男の姿を見つけた。
そしてついに今日、そいつの容姿を見て確信した。
多分、そんなところなのではないだろうか。
「前にも言ったけど違うよ。あなたのお姉さんとは恋人どころか、まともに話した記憶も数えるほどしかないんだから」
『じゃあ、なんでですか?』
「なんでって言われても、それはわからないけど」
そうとしか答えようがなかった。
この子にしてみれば、私こそがまさに渦中の人物だと考えているのだろう。
しかし私は言ってしまえば、他所の県で発生した災害をテレビ越しに観ているような、ただただ無責任なだけの傍観者でしかないのだ。
彼女の欲する答えを知っている人間がいるとすれば、すでにこの世界からいなくなってしまった姉の唯と、本当に存在したのかすらわからない、その『死んだ恋人』とやらだけだ。
それにもし仮に私が少女の姉の恋人だったとしたら、彼女は『姉が死んだのはあなたのせいだ』とでも言うつもりなのだろうか?
そこにはどんな根拠があり、それをしたところで何になるというのか?
「もし僕が嘘を言っていると思うのなら、そのスマホの連絡帳に名前のある他の同級生の人たちに聞いてみるといいよ。それじゃ」
通話終了のボタンをスワイプし、そのままスマホの電源も落とす。
「……どういうつもりなんだよ」
自らが発した言葉で不快な気分が励起される。
少女のこともその姉のことも、本当に気の毒だとは思う。
それゆえに、そんな相手に対して苛つきを感じている自分に嫌気が差す。
藤田には申し訳ないが、明日の朝一番にここを去ろう。
たぶんというかやはりというか、私はこの町に嫌われているのだろうから。
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