親友
目覚めとともに嫌な予感がした。
布団に横たわったまま窓の外に目を向ける。
案の定、灰色をした空から落ちてくる大量の鉛色の粒が、家の屋根や壁を強かに打ち付けていた。
幸いにも我が家は軒の長く張り出した日本家屋だったおかげで、家の中までは濡らさずに済んだのだが、午前中に予定していた墓参りは延期することが決定した。
高畑の法事がある昼過ぎまでに止んでくれるといいのだが。
よく田舎は時間の流れが遅いといわれるが、今の私のように何の予定もなくただ家の中に閉じ込められていれば、否が応でもその説を肯定したくもなる。
もっともこんなこともあろうかと、今回の帰省では仕事用のノートパソコンを持参していた。
他部署の人間との連携が求められる案件には手を付けられないので、社内向けの資料を作成して時間を潰す。
給与が発生しているわけでもないのに仕事によって余暇を埋めている私は、現代社会に於いては決して褒められる存在ではないのかもしれない。
こういう時にできる趣味でもあればいいのだが、旅行という私のそれは、言ってしまえば帯にもたすきにも長すぎる代物で、こんな場面ではまったく潰しが効かなかった。
昼前までパソコンの画面と睨めっこをしてから昨夜のうちに入手しておいた弁当で昼食を済ませていると、いつの間にか窓の外が明るくなっていることに気がついた。
黒く厚い雲の間からは夏の青空も見え隠れしている。
この分ならば傘を持参せずとも大丈夫だろう。
藤田と約束をした十三時半にはまだ少し早かったが、彼が決められた時間までに準備を済ませているというビジョンがまったく浮かんでこなかった私は、十五分の余裕をみて家を出ることにした。
それは彼の家に着くなりだった。
ボクサートランクス姿でワイシャツを手に持った旧友が玄関から裸足で降りてくる。
「叶多が早めに来てくれてまじで助かったわ」
あまりに予想通だった彼の行動に、苦笑いどころか腹を抱えて笑ってしまう。
「ネクタイ、いつもウチのにやってもらってたから着け方がわかんなくってさ」
どうやら彼の奥さんは昨日の夜から実家のある隣町に、子供を連れて里帰りをしているのだそうだ。
「わかったから先にワイシャツ着てくれ。それと時間の無駄かもしれないけど一応見て覚える努力もしてみなよ」
久しぶりに会った友の正面に立つ。
外仕事で日焼けした太い首に、それよりもさらに黒いタイをぐるりと回して二周、三周と結び目を作る。
「ほいよ。もう動いていいよ」
「お、サンキュ! やっぱり持つべきものは友だねえ」
今から同級生の法要に向かうところだというのに、昔とひとつも変わらない彼の言動に再び大笑いしてしまう。
そういえば彼が高校をクビになった遠い日にも、ちょうど今と同じようなことがあったと記憶している。
あれは確か二年の二学期が始まってすぐのことだった。
『そんなに喧嘩がしたいなら俺としようぜ』
私はそう言ったと同時に、母親に付き添われて学校から去っていく彼の背中に思いきり蹴りをいれた。
驚いた顔をして振り返った面にも拳を一発叩き込む。
そのあとはまあ、逆にボコボコにされたのだが。
腹に何発か入れられうずくまっている私を引き起こした彼は、持ち前の悪人面を突如泣き顔に変えたのだった。
その直後、まるでクマが獲物に止めをさすように太い腕を大きく掲げると、私のことをガッシリ抱きしめ先ほどの台詞じみた言葉を口走った。
『叶多! ありがとな! やっぱり持つべきものは親友だな!』
騒ぎに気づき教室の窓からそのやり取りを見ていた同級生やら上級生やら下級生の女子たちが、どういったわけか一斉に黄色い声をあげる。
すぐそばで一連のやり取りを目の当たりにしていた彼の母親はといえば、なぜか腹を抱えて大笑いしていた――。
「え。なんなんだこのどうでもいい記憶は。思い出すんじゃなかった……」
「ん? 叶多なんか言ったか?」
「いや、なんでもない……」
助手席でやんややんやと騒がしい男を適当にあしらいながら車を走らせること十五分。
相変わらず立派な佇まいの高畑家に到着する。
すでに十数人の黒装束が庭の隅に集まっており、その中にはよく知った古い知り合いの顔もチラホラと見える。
彼ら彼女らと挨拶やらなんやらをしているうちに、紫色の袈裟を着た住職がスクーターでやってくると、すぐに家の玄関へと吸い込まれていった。
それを合図としたかのように、ご近所さんと思しき団体がぞろぞろと移動を開始し、そのさらに後ろを我々学校関係者が続く。
ふすまが取り払われ大広間となった続き間の、その一番奥に彼の小さな祭壇が組まれているのが見えた。
三段組みの最上段には、白く小さな箱の中に収められた高畑と四つ切サイズの写真の中で笑顔を浮かべた高畑の、二人の彼が等しく並べ祀られている。
祭壇のすぐ前に座る遺族の中に、生後まだ数か月ほどの赤ん坊を胸に抱く若い女性の姿があった。
言わずもがな彼女が高畑のワイフであり、女児と思しき赤子はふたりの子だろう。
今にもぐずりだしそうな我が子をあやす母親の手には、遠目に見ても真っさらだということが明らかな白いハンカチが握られている。
突然逝ってしまった夫の法要にして、夫人たる彼女が涙の一粒も流していないのは、昨日までの数十日の間に一生分のそれを出し尽くしたからだろうか。
ちょうど一年前。
高畑は真っ黒に日焼けした顔を真っ赤に染めながら、もうすぐ父親になることを私に報告してくれた。
奥さんの顔は今日ここで初めて目にしたが、羨ましいくらいの美人ではないか。
子供が可愛い盛りを迎えるのも、まだまだこれからのことだろう。
それなのに、なぜなのか。
「高畑……お前、大馬鹿野郎だよ」
僧侶の読経からはじまった法要はやがて焼香へと移り、場所を菩提寺へと変えて同じようなことを繰り返したあと、最後には寺の裏手にある高畑家の墓の下に遺骨が納められた。
「本日は浩二のためにお暑い中をお集まりいただきまして――」
ひと月半の時を経て尚、息子を突然失った衝撃や悲しみが和らぐことはないのだろう。
参列者に挨拶をする父親の顔はとても険しかった。
こうして高畑の四十九日の法要は、あまりにあっさりとその日程のすべてを終えた。
「亡くなった人にこういうことは言いたくないけどさ、高畑は無責任だよ」
それこそ部外者が無責任に踏み込むべき問題ではないことは承知の上だった。
「まあな。奴からすればよっぽどのことがあったんだろうけど、だからってなあ……。嫁さんも赤ん坊もいるのによ」
二児の父たる彼の言葉には、ただ感情的に口走った私のそれとは違い、堂々とした含蓄のようなものを感じる。
当地は私の住む都会に比べれば遥かに涼しい気候なのだが、それでも夏はやはり夏だったようだ。
よく踏み固められた赤土の墓地はアスファルトほどではないにせよ、夏の日差しをよく蓄え、そしてよく反射した。
「叶多。悪いんだけど俺さ、これからヨメさんの実家に顔を出さんといけないんだわ」
「ああ。だったら車で送っていこうか?」
「いや、こっから歩いてすぐなんだわ。だもんで今日はこれでな」
実のところ、このあとは彼と酒を酌み交わしながら近況報告や思い出話をするのを密かに楽しみにしていた私だが、そういうことであれば仕方がない。
「叶多はいつまでこっちにいるんだ?」
「盆休みに有給を一日くっつけて取ったから、最長で
「わかった。それまでに一度連絡するわ」
漫画のライバルキャラのように振り向かずに手を振る彼を見送ったあと、完膚なきまでにフリーになってしまった時間をどのように浪費しようかと、墓地の中心に立ち尽くしたまま頭だけを動かす。
すぐに思いついたのは、当面の買い物をしてから家に帰り今朝の仕事の残りに手を付けることだった。
次に思いついたのは、せっかく車があるのだからどこか適当にドライブにでも出掛けるという夏休みに相応しい案だった。
さて。
さしたる長考も経ずに前者を採択した自分が悲しかったが、そのぶん夜はゆっくりと無駄に時間を使おう。
取ってつけたような思いつきで自身を納得させた私は、墓地の正面に駐めてある車へと向かい踵を返した。
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