水守茉千華

何故

 車のステアリングを握るのは去年の夏以来なので、およそ一年振りのことにもなる。

 今回も繁忙期に急な手配を掛けたせいで車種を選択する余地などなく、巨大なミニバンで運ぶ空気の分まで料金を支払った気がしてならない。

 ただ、前回と違ったのは実家最寄りの新幹線の停車駅までは鉄道を利用し、このレンタカーは現地の駅前で借りていたことにある。

 おかげで車での移動距離はわずか五十キロほど、時間にして一時間半に留めることができた。


 またしても急な帰省だったこともあり、父と母は――こちらもまたしても――旅行に出掛けてしまっているそうだ。

 どうやら私が知らなかっただけで、それは二人の毎年の恒例行事なのだと聞いた。

 今年は海鮮を目当てに北海道まで足を伸ばしているらしい。

 血の濃い親戚がいない我が家の盆休みは、他所様の家のように必ずしも忙しい時期ではなかった。

 今朝方に出掛けて四泊してくるそうなので、この夏は二人と顔を合わせる機会はもうないだろう。


 目的地である実家まで、あと十数キロメートルといったところで日没を迎える。

 途端に先ほどまで多くすれ違っていた車の列が急にまばらになった。

 きっと世間の人たちはもう、今日という日の締めに入ったのかもしれない。

 今頃は、普段使いの卓の横に盆と正月しか使わない、少しだけ高さの違う長卓をくっつけると、先祖供養にかこつけた酒盛りを始めているのであろう。

 私もとっとと食料を仕入れて実家に戻り、晩酌の真似事でもしてから明日の用事に備えて寝てしまおう。

 そんなことを考えながら信号待ちをしていた、その時だった。

 ラジオからふいに、例のあの曲のイントロが流れてくる。

 私が車に乗るのを狙ってラジオ局の連中が流しているのではないか?

 そう疑いたくなるような絶妙すぎるタイミングに、被害妄想だとわかっていても気分がいいはずもない。

 左手をカーステレオの電源スイッチに伸ばす。

 しかし、私がラジオの息の根を止めるよりわずかに早く、頭上の信号機が青色の灯火をともしてしまった。


 何年ぶりかにまともに聴くその曲は、やはり私の気持ちを暗く深い場所へといざなった。

 ”明日もし君がいなくなってしまっても”で始まる歌詞も、この曲を愛してやまなかったあの頃とは真逆の意味に聞こえる。

 ただ、サビのギターリフの部分だけは相変わらずで、格好いいの一言に尽きた。

 そこが好きで好き過ぎて、生徒会の連中を説き伏せまでして文化祭で演奏したくらいに。

 七菜との出会いもこの曲だったし、芝川さんもこの曲を演奏している私を見て好意を抱いたと言っていた。

「大した曲なのかもな。悔しいけどさ」

 そうひとりごちってから、今度こそはと電源ボタンを力任せに押し込む。

 甘くて苦い思い出が詰まりに詰まったその曲を、ようやくにしてこの世界から消し去ることに成功した。


 去年と同じように閉店間際のスーパーに駆け込むと、値引きシールの貼られた弁当やら惣菜、それに大量のアルコール飲料を入手する。

 程なくして到着した実家は当たり前に真っ暗で、柄にもなく両親が不在であることに寂しさを覚えたのだが、驚くべきことに玄関の引き戸には錠が掛けられていなかった。

 ゆうべ母親に電話を掛けた際に『鍵はポストに入れてあるから』と言われ、その不用心さを注意したばかりだというのに。

 もっとも、その私とてこの家にいる時は窓という窓を開けたまま寝るのだから、あまり人のことを言えたふうでもなかったのだったが。


 買ってきたものを仕舞いに台所へと向かうと、冷蔵庫のフレンチドアを跨ぐようにA4サイズ紙が貼られているのが目に入る。

 剥がさなければドアさえ開けることができないそれは、どうやら父と母の旅行の日程表のようだった。

 彼らが一体どんなスケジュールで北の大地を堪能するのか。

 それにさしたる興味はないので熟読こそしようとは思わなかったが、ひときわ大きく書かれた、母のものと思しき走り書きが目に留まる。

『来年はあなたも一緒にきなさい。彼女も連れてきていいからね』

「ハァ……」

 思わず今年一番のため息が出てしまった。


 あいも変わらずだだっ広い風呂に一時間も浸かり、そのあとはTシャツにボクサーブリーフというだらしなさで晩酌を開始する。

 広縁に腰を下ろし、少し離れた居間でつけたままにしてあるテレビの音をBGMにしながら、缶に入ったままの大して旨くもないハイボールを煽る。

 これではまるで数十年後に訪れであろう、リタイヤ後の日常のリハーサルをしているようだ。

 果たしてその時私の傍らには、いったい誰がいてくれるというのだろうか?

 それは間違いなく自身の今後のあり方次第なのだが、そこに至るまでのあまりにも長い道のりとその展望は、どのようにして立てるのが正解なのだろうか?

 少なくとも学校で教わった記憶はない。

 私が知る限りでも数人からの同級生は、すでにそれを手に入れている。

 もしかしたら私はここまでの人生のどこかで、すでに道を間違えていた可能性はないだろうか?

 だとしたらそれは、一体どこだったのだろう?

 中学時代だろうか?

 高校時代だろうか?

 大学時代だろうか?

 それとも今まさにこの瞬間にも、道は目の前で無数に分岐しているとでもいうのだろうか?


 居間から聞こえてきた歓声で目が覚める。

 目が覚めたということは、気づかぬうちに寝てしまっていたということだ。

 いつの間にやら始まっていた野球のナイトゲームで、どこかの球団の誰かがホームランでも打ったのだろう。

 夏の夜風は心地よくはあったが、さすがにここでこのまま寝るという選択肢を選べるほどには私も若くはなかった。

 時計を見ようとスマホを探すが見当たらない。

 しばらくの間キョロキョロとあたりを見回していると、突然自分の左手の中でナニカが激しく振動した。

 探し求めていたブツは自らの手の内にあったようだ。


「もしもし、中原です」

『お! 叶多! 俺!』

 一旦スマホを顔から離し音量を二つ下げてから返事をする。

「知ってるよ。名前、出てるから」

 初っ端から無駄なやり取りとなった電話口の彼は、続けざまに『明日って何時だっけ?』と、かつての恋人並に文脈を意識させない言葉を投げかけてくる。

「十四時――二時からだよ。てか、昨日お前が教えてくれたんじゃん」

『そうなんだけどメモとってなかったから忘れた』

「じゃあ書いとけよ、今すぐにでも」


 藤田とは幼稚園の頃からの付き合いだったが、私が覚えている限りでずっとこんなふうだった。

 勉強と女性の扱いはからっきしの彼だが、今でもこうして連絡を取り合う数少ない地元の友だ。

 余程のことがなければもうしばらくは戻らないと決めていたこの町に、たったの一年で足を向けることになったのは、昨日の夜に彼が寄越した電話が理由で、その内容はといえば余程のことだった。


「車で来てるから明日ついでに拾ってこっか?」

『そうしてくれると助かるわ』

「わかった。じゃあ、一時半くらいでいいかな?」

『おうよ。悪いな』

「いいよ、全然。それに実はさ、僕もひとりで行くのはちょっとあれだと思ってたから」

『俺もだよ。どんな顔していけばいいのかもわかんねえし』

「去年の、水守さんの時は僕も同じだったよ」

『ああ。ちょうど今の時期だったか』

「うん」


 昨夜おそくに藤田にそのことを知らされた時、私は正直に言えば背筋が凍る思いだった。

 たった一年のうちに同級生が二人も、そんな――言い方は悪いが――普通ではない亡くなりかたをしたというのだから、それも仕方がないのかもしれないが。

 もっとも話を詳しく聞いてみると、亡くなったのは昨日や今日の出来事ではなく、梅雨に入ったばかりの六月の終わりだったそうだ。

 葬儀は水守さんの時よりもさらに内々で執り行われ、近隣の住人や付き合いの深かったの人たちが公に知らされたのは、四十九日の法要を間近に控えた先週のことだったという。


 なぜ彼は自ら命を断ったのか。

 遺書もなければ近しい人間にも思い当たる節などなかったという。

 遺族にしてみれば、未だ以て受け入れがたいだろうということは想像に易い。

 彼とは学生時代、特に仲のいい友人同士というわけではなかった。

 ただ、去年の水守さんの件では大変お世話になったし、ほんの数時間ではあったが大人同士のやり取りをし、彼が好ましい人物だという認識を持つに至っていた。

『高畑のやつ、なんで自殺なんかしたんだろうな』

「――本当に、なんでだろうな」

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