もし
どうやら少しだけ寝すぎてしまったようだ。
昨夜は天気予報を見ぬままに寝てしまったのだが、カーテンの隙間から射し込む光の強さと角度とが本日も晴天であることと、それにすでに朝と言えないような時間帯であることまで教えてくれていた。
「咲希さん起きて。昼から仕事なんでしょ?」
「……あと五分だけ……お願い……」
「絶対に五分?」
「……ぜったい」
言質を取ることに成功した私は、人質のようなその時間を用いて身支度を整えることにした。
やがて彼女は、約束通り五分ちょうどでベッドから這い出てきた。
そして、ベッドの縁に腰を下ろすとノロノロとした動作で下着に足を通し始める。
もはや知らぬ仲ではないとはいえ、その様子をじっと眺めているほど私も間抜けではない。
「お弁当温めておくから」と、それだけ言い残して一足先にキッチンへと向かった。
大きなあくびをしながらやってきた彼女は、昨日の夜に駅で出会った時とは違う、カーキ色のカジュアルパンツ姿だった。
「あれ? このあとのお仕事って、スーツじゃなくてもいいの?」
「あ……うん。へいき」
どうにも彼女らくない、歯切れの悪い返答だった。
いつもの休日であれば、このあとは洗濯物をやっつけてから買い物にでも出掛けるところなのだが、生憎今日はその『いつもの休日』ではなかったし、何をするにせよその前にしなければいけないことがあった。
「あの。咲希さん」
「うん? なあに?」
「……ごめん」
「え? なにが?」
いくら酔っていたとはいえ、昨夜起きてしまったことをよもや覚えていないはずなどない。
「……本当にごめん。その……酷いことをしちゃって」
彼女の方から仕掛けてきたことだとはいえ、応じたのであればそれ相応の対応をして然るべき義務はこちらにあったはずだ。
それなのに昨夜の私ときたら、あれでは繁殖期のサルとほとんど変わらない。
「ひどいことって? 叶多くんは気持ちよくなかったの?」
「そんなことはないけど……」
「気持ちよかった?」
「……よかった」
「私もすっごく気持ちよかった! 叶多くんって上手いんだね、えっち」
「そんなことない……と思う」
謝罪をするために始めたはずの会話が、彼女の巧みな誘導によって試合後の感想戦のようなやり取りに置換されようとしていた。
「私のほうこそ、ごめんね」
「咲希さんは何も悪くないよ」
強いて言えば、私の元恋人の名前を出したことが彼女の過失にあたるかもしれないが、そんなものはその後の出来事で全て相殺されていた。
「違うの。お昼からお仕事って言ったでしょ? あれ……ウソなの」
「……え?」
「私、昨日ね。大学生の頃から五年付き合ってたカレシと、別れたの」
正直、『何の話だ?』と思った。
だが私はこれまでの人生経験で、女性という生き物は男とはまったく違った言語野の働きで言葉を組み立てることをよく学び知っていた。
こちらからいろいろと尋ねるよりは、彼女の話に耳を傾けたほうが理解は確実に早いだろう。
「五年も付き合ってんだから、わたし的にはそろそろかなって、そう思ってたんだ」
そろそろって……結婚、ってこと?
「うん。それで昨日の朝――あ、二年前から一緒に住んでたんだけどね。思いきって言ってみたの。来年うちの式場がリニューアルするから、そこでお式を挙げたいな、って」
それで?
「カレ、急に怒り出してこう言ったの。『俺はそんなつもりで付き合ってなかった』って」
……。
「それで私、何も言わないで家を出て、そのまま叶多くんのところにきたの」
……なんで僕のところに?
「高校二年の五月の文化祭でさ。叶多くんたち、体育館のステージで演奏したでしょ? その時に私ね。叶多くんのこと、好きになっちゃって」
「でも、叶多くんには七菜がいたから」
「そのあと、叶多くんと七菜が別れたってきいて。私、別れた理由も知ってたんだ。なのにさ」
「なのに私、ちょっとうれしかったの。もしかしたら今度は私が叶多くんのカノジョになれるかもって」
「でも、告白する勇気なんて持ってなかったから」
「カレは……もう元カレ、なのかな? とにかく彼はね。本当にとってもいい人だった」
「私、カレとだったら絶対にいい家庭を築けるって思ってたんだ」
「でも、カレはそうじゃなかったみたい」
「それでね。叶多くんに抱いてもらったら、少しは気が晴れるかなって」
「叶多くんだったら嫌なこと、ぜんぶ忘れさせてくれるかなって」
「だから。本当に……ごめんなさい」
溜まっていたものを吐き出し切った彼女は、小さな肩を細かく震わせながら嗚咽を漏らした。
私はといえば、その悲劇ともいえる彼女の話を聞き終わって尚、正直なところ心に波風が立つようなことはほとんどなかった。
利用されたということに怒りもしなければ、彼女のことを憐れむような気持ちもない。
では、何も考えていないのかといえば、それもまた少し違っていた。
「咲希さん、明日は仕事?」
「……あ、うん。午後からだけど」
「じゃあ今晩も泊まっていきなよ。朝イチでここを出れば間に合うよね?」
「大丈夫だけど……いいの?」
「うん。それで今夜はもっと早い時間からしようよ」
「え?」
「まだ全然し足りてないし」
本当のことをいえば、あんなサルのような行為を褒められたのが少し癪だったというのもある。
「叶多くん」
「なに?」
「えっち。でも……ありがとう」
それから私はいつもと同じように洗濯物をやっつけると、すっかり笑顔を取り戻した彼女を連れて家を出た。
男の独り身では行きたくても行けなかったやたらとお洒落なカフェでケーキを食べて、商業ビルの一階に入っている小さな水族館へも足を運んだ。
昨夜のディナーは色気も何もあったものではなかったので、今日こそは小洒落たレストランで――と思っていたのだが、彼女たっての希望でどこにでもあるファミレスでハンバーグを食べることになった。
「高校三年の体育祭の打ち上げでさ。隣町にあるファミレスでみんなでご飯食べたのって、叶多くんは覚えてる?」
そういえば、確かそんなこともあったような気がする。
「帰り、結構遅くなっちゃってさ。男子が手分けをして女子を家まで送ってくれたの」
「ああ、うん。あったね、そんなことも」
「私の担当は叶多くんだったの。……もし、もしね。あの時さ。勇気をだして叶多くんに告白してたらさ。私たちってどうなってたかな……?」
「……どうなっていたんだろうね」
だけど。
だけどね、芝川さん。
人生には『もしも』なんてものはないんだよ。
それがあるのは物語の中だけで、今ここにいる私と君だけが、たったひとつの答えなんだよ。
翌日の朝、まだ日も昇らぬうちに彼女は私の知らない町へと帰っていった。
「中原くん。本当にいろいろとごめんね。それにありがとう」
「ううん。芝川さんも元気でね」
「うん……さようなら」
翌年の正月に開かれた同窓会に彼女は顔を出さなかった。
もっともそれは私も同じだったので、あとになってから地元の友人に伝え聞いたことに過ぎないのだが。
彼女とはもう二度と会うことはないかもしれない。
ただ、偶然どこかで顔を合わせることがあれば、その時はまた『叶多くん』『咲希さん』と呼びあえたらいいなと、そうも思った。
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