蠱惑
私はあまりアルコールは強くないほうだが、自称『強いほう』の彼女に比べたら幾分かは飲める
お好み焼き屋ですでに飲んでいたということもあったのだろう。
発泡酒の缶をたった一本空けただけの彼女は、傍目には週末の路地裏に横たわる泥酔者に近い状態に見えた。
それに伴い雑になった言動は、普段の人懐こくしっかり者の彼女からは想像だにできない、悪くいえば酒癖の悪い人間を体現したかのような、とにかくそんなふうであった。
「叶多くんはなんで彼女を作らないの?」
「なんで……って言われても」
私だって好きで独り身でいるわけではない。
職場には女性従業員も多いが、こと色恋に関して私は奥手だった。
「叶多くんって性格いいし面倒見もいいし、顔だって悪くないんだし」
「そこは『いい』で統一してくれてよかったのに」
「それじゃあ七菜と別れてからずっとひとりなの?」
聞きたくなかった名前を出され、発泡酒の缶を握る手に力が入ってしまう。
もっとも私と七菜が抱える確執の仔細を知っている人間は、当事者である三人以外にはいないのだから、芝川さんの発言に腹を立てるのは筋違いもいいところだ。
「そうだよ。高二の冬からずっと、誰とも付き合ってない」
なぜ私は今、こんなにも惨めな告白をさせられているのだろう?
自分のことがとても可哀想に思えてきた。
知識の上でしか知らないのだが、圧迫面接という奴はきっとこんな感じなのかもしれない。
「じゃあ……えっちは?」
酔っ払い相手にこんなことを言ってもあれだが、いったい何が『じゃあ』だ。
「してないよ」
「えええええええええええええ!」
絶叫でガラステーブルの上の空き缶がブブブと振動する。
「え、そんなに驚かれること?」
「驚くよ!」
断言された。
「え? ……ちょっと待って? じゃあひとりでしてるの?」
彼女はそう言って手にした発泡酒の缶を上下に振るような仕草をする。
かつては学年きっての優等生だった芝川咲希の面影は、少なくとも今この場においてはどこにも見当たらない。
このまま彼女の詰問を受け続けていたら、夜が明ける前には私の頭髪はすべて抜け落ちるか真っ白になってしまうことだろう。
「あ、そろそろあれが始まる時間だ」
急拵えで捏造した『毎週欠かさずに観ているテレビドラマ』を視聴するために、テーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばす。
しかし、私の三文芝居を目敏く見抜いた彼女は、パスをカットするバスケ選手のように両手を思い切り伸ばすと、リモコンから照射された赤外線の遮断を試みる。
果たしてその無謀ともいえる目論見は、本人が意図しなかった形態で結実したのだった。
「ちょっと危ないって!」
まるで獲物を追い詰めた女豹のように飛び掛かってくる同級生を、咄嗟に突き出した量の腕で支えようとした。
結果、ソファーとリビングテーブルの間の狭い隙間に二人仲良く落下しすると、私に至っては「ぐえっ!」とヒキガエルのようなうめき声を漏らした。
その甲斐あって、転倒から彼女を守るという最低限の目標だけは達成できたようだ。
ただ、だからといって互いが完全に無事であったかといえば、必ずしもそうとは言い切れなかった。
彼女が身に纏う『彼シャツ』の裾は大きく捲れあがり、触るまでもなくその柔らかな手触りを容易に想像できる、まるで白桃のような臀部が露出してしまっていた。
そんな刺激物を目にした瞬間、故意に俯瞰で見ていた景色が一人称のそれへと戻り、次の瞬間には――ほんの一瞬ではあったが――目の前にある果実に手が伸びそうになる。
即座に我に返ることに成功しはしたものの、今度は下腹部にあたっている二つの膨らみが強く意識された。
それもやはり、私にとっては毒でしかない。
「叶多くんごめん! ……大丈夫?」
「……なんとか」
申し訳無さそうにそう言った彼女は、秋の西日を受けた校舎の壁のように顔を真っ赤にしていた。
私の顔もたぶん、同じようなことになっているはずだ。
彼女をソファーに座らせながら壁の時計に目をやる。
その針はいつの間にか日付を跨いで尚、一時も休むことなく動き続けていた。
そろそろ色々な意味で潮時だった。
「芝川さん。時間も遅いしそろそろ寝ようよ」
「寝るって……えっちするってこと?」
「ぜんぜん違う」
「……なにもそんな全力で否定しなくてもいいのに」
私としてはツッコミを入れたつもりだったのだが、彼女はボソリとそう呟くと俯いてしまう。
「いや、別に芝川さ……咲希さんが魅力的じゃないとか、そういう意味じゃないんだ」
私だって若い男なのだ。
正直に言えば、お好み焼き屋からの帰り道に彼女が腕を組んできたあの時から、ずっとこの人懐こい同級生に異性を感じ続けていた。
それ故に、私は理性をもってこの衝動を抑えつけなければいけない。
高校時代の、どうしようもなかった頃の私を知っているはずなのに、尚もこうして友達でいてくれる存在が、酔った勢いで相手にしていいような、そんな安っぽい相手であるはずがなかった。
とはいえ、少しくらいのフォローは入れておくべきだとも思った。
「高校生の頃には気づけなかったけど咲希さんって……素敵だと思うよ」
ツッコミを期待しそばだてた耳に、スースーという寝息が聞こえてくる。
「おーい……」
多少の覚悟を決めてから抱き上げた彼女は、想像していたよりも随分と軽量かつコンパクトだった。
もしかしたら『着ぶくれするタイプ』というやつなのだろうか?
ただ、それでもやはり胸のサイズは――私のそう多くない女性経験からすれば――並々ならぬ
お姫様抱っこにより背を丸めたワイシャツの胸元は盛大にはだけており、実に
眠れる森のなんちゃらを抱えたまま廊下を五メートルゆくと、すぐに彼女の部屋の前までやってくることができた。
だがしかし、この状態でどうやってドアを開ければいいのだろう?
足のほうに回している手で開けようとすると、ドア枠と彼女の頭部とのクリアランスが確保できずにぶつけてしまうことになる。
それならば逆の手でいくかと思ったが、むしろこちらは微動だにすらできない。
なぜなら彼女の全体重の八割方は、こちらの腕の筋力に委ねられていた。
進退窮まった私は、最終手段にして唯一の打開策を発動する決意を固める。
それは彼女を再びソファーまで運び、ドアを開けてからまた抱いて戻ってくるという、非常にアナログかつ面倒ではあるがもっとも確実な方法だった。
明かりの消えたリビングに舞い戻った私は、両腕に抱えたなんちゃら森の美女を起こさないようにソファーの上にそっと横たえ、その首と膝の裏に差し込んでいた腕をゆっくりと抜き去る――つもりだった。
文字通り目と鼻の先にあった彼女の顔が勢いよく迫ってくる。
それはあまりに突然のことで、自身に何が起きたのかを理解するのに数秒の時間を要した。
ようやくにしてすべての出来事を脳が理解したのと同時に、今度は自分の唇に熱く柔らかなものが接触していることに気がつく。
さらに数秒ののちに慌てて上半身を離そうするも、気づかぬうちに彼女の両腕は私の首の後ろへと回されており、逃れるどころかより一層強く引寄せられてしまった。
その気になれば力で引き剥がすこと自体はさして難しくないのだが、この場面に於いてのそれは、一番の悪手だと直感が警鐘を鳴り響かせる。
万策が尽きた私は、結局のところ軽い抵抗を見せながらも、なされるがままでいたのだった。
「……くて……ご……ね」
ふいに彼女が発した言葉は不明瞭で、そのほとんどは聞き取ることができなかった。
だが今この時、彼女の唇はすなわち私の唇でもあった。
耳で聞くことはできずとも、その意味を理解するのは自分でも意外なほどに易かった。
私が抵抗することをやめたからだろうか。
初めはただ押し付けられていただけの唇の間から、やがて小さく熱い舌が蛇のように這い出てくると、さらなる獲物を求めて私の口腔に侵入を試みる。
もし拒むのであれば、まさに今このタイミングでしかありえないだろう。
しかし私はそれをしようとしなかった。
むしろ逆に、彼女の巣穴を大きく広げながら割って入る。
つい先ほどまで私は彼女にだけは嫌われたくないと思っていた。
それなのに今は逆に、どんなに卑劣な方法を用いてでも嫌われようとしていた。
『七菜とちがくて魅力的じゃなくて、ごめんね』
彼女は確かにそう言った。
なぜ、その名前を出したのか。
なぜ、そんなくだらないことを言ったのか。
だからわからせてやりたかった。
私がただ優しいだけの男ではないということを。
それに私が彼女のことを魅力的でないなどと、一寸たりとも思っていないということも。
そんな色々な感情が入り乱れ、やがて爆発した。
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