芝川咲希
唐突
都会へ移り住んでから七年になる。
今の職場は一昨年から出社が不要な業務に関しては、リモートワークが導入されていた。
それに伴い、大学時代から住み続けていたワンルームのボロアパートを引き払い、このマンションへと移ったのが今年の春のことだ。
職場のある都心部からは少し遠くなってしまったが、家賃据え置きで占有床面積は一気に倍になったし、何より築年数が浅いおかげで隣室や上下階に気を使わずに生活できるようになった。
田舎から戻った私は以前と同じように働いては寝、寝ては働いてといった退屈な日常を送っていた。
唯一の趣味である旅行にも、ここ半年くらいまともに行ってはいない。
来年の正月にはまとまった休みが取れる予定なので、久しぶりに海外に足を伸ばしてみようか。
ヘルシンキに住むパッカー時代の友人に会いに行くのもいいかもしれない。
そんな妄想をすることで日々の英気を養いながら過ごしていると、気がつけば外出するのにコートが必須な季節を迎えていた。
休出――といっても在宅だが――に勤しむ、とある土曜の午後のことだった。
いつものように仕事終わりにレポートをまとめていた時だった。
スマートフォンからプライベートの相手からの着信を知らせる軽快なメロディーが聞こえてくる。
終業時刻はまだもう少し先なのだが、幸いにもパソコンのカメラとマイクがオフラインになっている時間帯であった。
デスクの脇に放ってあったスマホの画面に目を落とすと、それが意外な人物からだったことに驚いてしまった。
「はい、中原です」
『あ、急にごめんね。今って大丈夫?』
久方ぶりの会話にも関わらず、まるで自然体といったふうなのが如何にも彼女らしかった。
「絶賛仕事中。でもリモートだから大丈夫だよ」
『そっか。じゃあ手短にするね。中原くん、今日の夜って何か用事ある?』
「今晩? 特にはないけど」
『よかった! じゃあ今夜、中原くんちに泊めてもらっていい?』
「はい?」
『あ、電車きちゃった! じゃあまたあとで掛けるね!』
「あ、ちょっと芝川さん! って……切れてるし」
彼女から再び連絡を受けたのは三十分後のことだった。
最寄り駅で合流すると、駅近くにある雑居ビル二階のお好み焼き屋で夕食をとることに相成った。
「突然だったから驚いたよ」
「ごめんね。急に行ってビックリさせようと思ったの」
その目論見が見事に成功したことは認めるが、果たしてそれはさして親しいとは言い難い異性の同級生にやることだろうか?
「こういうことしない人だと思ってたよ、芝川さんって」
「あはは! ホントにごめんね。迷惑だったよね?」
彼女はそう言うと、金属製のコテを持ったまま顔の前で手を合わせる。
「まあいいんだけどさ。それより今日は? なんでこっちに?」
「あ、お仕事なんだけど朝が少し早いから。前乗りしたほうが楽かなって」
だからといって私を頼ったことの意味がわからない。
「ビジホで良ければ今からでも取れるよ? 仕事の付き合いのあるところなら安く泊まれるし」
それは親切心からというよりは保身のための提案だった。
彼女からこういった要望を出してきたということは現時点で交際をしているような相手はいないのだろうが、家に泊めるともなればそれ以前に色々と問題があるような気がした。
「……やっぱり迷惑だった?」
なれた手付きで二本のコテを使いお好み焼きをひっくり返していた彼女が、ふいにしおらしい表情をみせたものだから面食らってしまう。
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
別に迷惑というわけではない。
ただ、――元バックパッカーをしていた人間が言うのもあれだが――恋人でもない妙齢の女性と一宿をともにするというのは如何なものかと、そう思っただけだ。
「こう言ったらあれだけどさ。僕らって特に仲が良かったわけでもないし」
では、仲が良かったら問題がないのかというと、それはまた別の話でもある。
焼けた海鮮お好み焼きを半月の形に切り分けた彼女は、その上弦半分を私のほうに寄越した。
私もお返しに自分の豚玉を真っ二つに切り、下弦半分を彼女の眼前に置く。
「ありがとう!」
彼女は大げさに喜んで見せると、ちびちびとビールに口をつけながら鉄板の火を落とした。
そして、柔らかそうな上唇に泡を付けたまま、少しだけ恥ずかしそうな顔をしてこう言った。
「あのね、今からでもいい?」
「なにが?」
「中原くんと仲良しになるの」
私が言いたかったのはこれまでの関係であり、これからのそれのことではなかった。
だが、彼女自身もそれを理解した上で発言しているのだろう。
「じゃあまあ、散らかっててもいいなら」
「ぜんぜん平気! お世話になります!」
入店前よりもお好み焼き一枚とビール二杯分だけ体重を増やした私たちは、翌日の朝食を入手するためにコンビニに立ち寄る。
「レジ袋が一枚で済むからエコでしょ?」
彼女はそう言うと私の買った分も合わせて会計を済ませてしまう。
「いくらだった?」
「わかんないからいいよ。レシートもらわなかったし」
「じゃあ、これだけ取っといて。多分足りると思うから」
財布から千円札を一枚出して渡そうとするも「今夜泊めてもらうんだから」と、彼女は頑なに受け取ろうとしてくれない。
そういえば夏に田舎に帰省した時にも、これとよく似たやり取りをした覚えがある。
ついこの間と思っていたその出来事から、すでに季節がふたつも進んでいたことに背筋が冷える思いだった。
閑静な住宅街の只中を、二人分の食料が入ったレジ袋をプラプラと揺らしながら自宅マンションへと向かい歩く。
すると、半歩ほど後ろを歩いていた彼女が突然腕を組んできたのだった。
少しだけぽっちゃりとしたその体型ゆえ、平均値より豊かで柔らかなものが厚手のコート越しの二の腕にはっきりと感じられた。
「芝川さん、もしかして酔ってる?」
ちょうど頭ひとつ分だけ下にある艶やかなボブカットに話しかける。
「え? ぜんっぜん。私ってこうみえてお酒、強いから」と言って、なぜか満足げな表情で私の顔を見上げてきた。
酒が強いという割に少女時代の面影をうっすらと残す童顔が、よく熟れたトマトのように真っ赤に染まっていた。
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