晴天

 周囲に一切の遮蔽物がないこの家は、真夏であっても窓さえ開けておけば心地の良い風が自由に出入りする良環境なのだが、早朝ともなれば強烈な朝日までもが直に差し込んでくる。

 敷地の東に位置するこの客間に於いてそれは家中のどこよりも顕著で、おかげでアラームの力を借りずに目を覚ますことができた。

 布団も敷かずに畳の上で夜を明かした割には、妙によく眠ることができた気がする。

 おかげで肉体の疲労だけはほぼ回復することができたようだ。

 窓外そとの世界のコントラストはもう十分に日中のそれだったが、いくら田舎だとはいっても墓参りに行くには些か早朝すぎる気がした。


 昨夜入りそこねた風呂にゆっくりと浸り、持参したノートパソコンで仕事関係の連絡をチェックするなどして時間を潰す。

 そうこうしているうちに、ようやく人々が営みを開始する頃合いになった。

 昨夜のうちに買っておいた墓花と線香、それに井戸水の入った二リットルのボトルを袋に入れて家を出る。

 歩いて行くには少しだけ遠く、車で行くのは大げさな気もする。

 うちの先祖代々の墓はそんな微妙な距離感の場所であった。


 薄っすらと陽炎が立ち上る農道を、ただただひたすら真っ直ぐに進む。

 空はこれでもかというくらいによく晴れていたが、夏特有の分厚い雲が時折太陽を覆い隠すほんのわずかな時間だけ、緑色の絨毯と化した田畑を瞬く間に仄暗く染める。

 少年時代にも、これとよく似た現象に遭遇した覚えがあった。

 幼かった日の私には、それが恐ろしいことが起こる前兆のように思えた。

 しかし、この世界で良からぬことが起こる時には何の前触れなどないことを、大人になった今の私はよく知っている。

 そんなものは無言でやってきて、無感情に人を絶望の淵から奈落の底へと突き落とすだけなのだ。


 二キロちょっとの距離を三十分も掛けて歩くと、ようやくにして目的地の墓地に到着した。

 山肌を背にした日陰にわずか七基ばかりの墓石が、みな同じ方向を向き並んでいる。

 いずれは私もこの場所にこの身を埋めることになるのだろうか?

 四十代も中盤という破格の若さの親を持つ身としては、自身の死後のことどころか、彼ら二親に会うためにここにやってきている自分を想像することすら難しかった。

 持ってきた菊の花を墓前に手向け、ボトルの水でステンレス製の花立の筒と水受けを満たす。

 半分ほど残った水を墓石にバシャバシャと掛けてから、仕上げに燻らせた線香を墓前に供え手を合わせる。

 最後に墓参りをしたのは、確か大学卒業が決まった年の秋だったか?

 また随分と不義理なことをしてしまったものだ。

 この場所に眠っているのは顔も知らぬ古い先祖だけではないのだから、本来であればもっと頻繁に訪れるべきなのだろう。

 それができていないのは、ただ単にこの町と私の住まう街とが遠いからというわけではない。

 その気になれば盆と正月に帰ってくるくらいわけはないのだ。

 それでも私の足はなかなかこの場所へ向かなかった。

「……また来ます。今度はもっと、できるだけ早くに」


 墓参りを終えた私に残された用事はといえば、午後に来るであろう母親の荷物の受け取ることのみになった。

 家に戻り昼食を食べていると――この町の伝統に習い――開け放ったままにしていた玄関から「ごめんください!」と、アブラゼミの蝉しぐれに負けない大きな声が聞こえてくる。

 果たしてそこにいた宅配便の配達員から、小型の冷蔵庫くらいはありそうな大きなダンボール箱を受け取った。

 配達員の彼は帽子を取ると頭を下げ、炎天の下を小走りでトラックへ戻っていく。

 その制服の背中は汗で色を濃くしており、仕事とはいえこんな真夏の只中に大荷物を届けてもらったことが申し訳なく思えた。

 もっともこれは私が頼んだ荷物ではないのだが。


 荷物を玄関の隅によけると、いよいよ私に課されていたすべてのタスクが完了したのだった。

 あとは高畑のところに顔を出し、彼の農園謹製の野菜を貰って巣に戻るだけだ。

 翌日に一日だけ残す盆休みは、復路の運転で溜まった疲れを癒やすために使うつもりでいた。

 そして明後日からはまた勤労の日々が始まる。

 たった二日半の滞在ではあったが、この町では本当にいろいろなことがあった。

 そのほとんどが私にとって好ましい出来事ではなかったが、同じ町で生まれ育った同級生を形だけであったとしても見送ることができたのだから、有意義な休日の使い方だったと、そう思うことにした。

 家中の戸締まりを確認してから、来た時に比べて増えも減りもしていない荷物を車の後部座席に投げ込む。

 今の私はといえば、とにかくこの居心地の悪い故郷から一秒でも早く逃げ出したくて仕方がないのだ。

 それも、あまりに惨めで情けない理由で。

 なぜ今日という日は、これほどまでに気持ちよく晴れてしまったのだろうか。

 雨でも降ってくれていたなら、少しくらいは気が紛れたかもしれないのに。


 帰り道に立ち寄った高畑の家では、実に段ボール二箱分もの野菜をもらってしまった。

「高畑、いろいろとありがとう。野菜、美味しく食べさせてもらうから」

「うん。また帰ってきたら連絡してよ。道中気をつけてね」

 素行不良生徒とクラス委員長という対極に位置する関係だったゆえに、学生時代には禄に交流のなかった私と彼だが、今回の帰省でその関係性は大きく変わったように思う。

 それはきっと、互いに大人という肩書を手に入れたからだろう。

 もっとも私のそれが仮初でしかなかったことは、昨夜のスーパーでの出来事によって辛くも露呈してしまったばかりだったが。


 高畑の家を出発し、町を南北に二分する県道を東へと向かう。

 しばらく無心で走っていると、前方にある信号機の目の色が黄色く変わるのが見え、アクセルペダルからブレーキペダルに足を置き換える。

 停止線までもう五メートルといったところで思わず強くブレーキペダルを踏んでしまい、前のめりになるような不格好な形で車は急停止する。

 なぜそんな事になってしまったかといえば、目の前の横断歩道を渡る歩行者の姿に驚いたからに他ならない。

 浅葱色のショルダーTシャツにカーキ色のキュロットといった出で立ちの少女――水守マチカが、頼りのない足取りで横断歩道を左から右へと渡っていた。

 その動きは古いタイプのゾンビのように怠慢で、異様なほどに白い肌が余計にそんなイメージを助長させた。

 彼女が横断歩道を渡り切ったのと同時に、目の上の信号機が灯火の色を赤から青へと変化させる。

 アクセルペダルを静かに踏み込みながら、ルームミラーに映るその姿を目で追う。

 戻って声を掛けるべきだろうか?

 一瞬そんな考えが脳裏をよぎった。

 だが次の瞬間には、それは行き過ぎた行為だと気づく。

 言ってしまえば私と彼女は赤の他人同士なのだ。

 それにあんなことがあったばかりなのだから、顔色や足取りが普通ではないというのはむしろ正常なのではないだろうか。

 あとは時間が彼女の心の傷を癒やしてくれるのを待つしかない。

 そしてそれは、私も同じなのかもしれない。

 無論、彼女とその家族が負ったものに比べれば、私の傷など絆創膏を貼る必要すらない、ほんの些細なかすり傷でしかないことなどわかっている。


 往路とは違って景色に新鮮味がなくなっていたせいだろうか。

 帰りの道中は眠気との激しい戦いの場であった。

 Uターンラッシュの只中でもあったせいで、サービスエリアでは車を止める場所を探すだけでも苦労した。

 こんなことならば道路が空いている深夜まで待つべきだったと後悔したが、それはそれで私のような運転に不慣れな人間にとって、得られるメリット以上のリスクが予想された。

 結局、一時間ごとに一休憩というルールを自分で制定し、レンタカー屋が閉まる直前の時刻になり、何とか自分の街まで戻ってくることができたのだった。

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