劣等

 もともとが両思いだったこともあり、私と彼女の交際は蜜月からスタートした。

 今になり振り返っても、その頃の私はあらゆる意味で充実しており、恋愛に音楽に多忙な日々を満喫していた。


 やがて夏休みが終わり二学期になり、二学期も終わり冬休みに入り、年が明けて三学期が始まり、また春が来て第二学年に進級し、高校生活二度目の夏休みも過ぎ去ろうとした頃。

 私の身の回りで、またしても大きな事件が起きた。

 バンドでドラムを務めていた藤田が高校を辞めてしまったのだ。

 自主退学という形ではあったが、その原因が他校生徒との喧嘩だというのだから、実質的にはクビだったのだろう。

 退学後に家業の造園業に就いた彼は、以前となんら変わることもなく私の友人であり続けた。

 しかし、当時の私にとって生きる目的のひとつだったバンド活動は、二年の二学期の開始と同時にあっさりと終わりを迎えた。

 所詮、子供の遊びに過ぎなかったということなのだろう。

 それでもあの頃の私からしてみれば、音楽は生き甲斐のひとつに他ならなかった。

 ゆえにその後の腑抜けっぷりといったら、思い出すことすら憚られる。

 そして同じ年の冬、私はさらにもうひとつの大切なものを失った。


「ごめんなさい」

 主語がない彼女の文法に慣れきっていた私をして、この時ばかりは本当に何がごめんなさいなのかまったくわからなかった。

「先週、三年の武井たけいさんに告白されたの」

「タケイ?」

 ああ、七菜にしつこく言い寄っていたあいつか。

「だから……本当にごめんなさい」

「……ああ」

 なるほど。

 ごめんなさいって、ああ。

 ああ、そういう意味だったのか。

 その日、卒業を間近に控えた先方が登校していなかったのは、彼と彼女、そして私にとって僥倖ぎょうこうであった。

 今日までの二十五年の人生で本気で人を殺めてやろうと思ったのは、後にも先にもあの瞬間の、たったの一度だけのことだった。



 スーパーの出入り口から、閉店を知らせる寂しげなメロディーが聞こえてくる。

 いつの間にか私と彼女だけを置き去りにし、他の客たちは家族や親戚の待つ幸せな家庭へと帰ってしまっていた。

「あの、叶多」

 そう言って小さく開かれた彼女の唇は、あの頃と何ひとつ変わっていないように見えた。

 心を通わせ合っていた当時、何度も何度も重ね合わせた柔らかなそこが再び動く。

「わたし、叶多に」

 発せられた音が意味を結ぼうとした、そのほんの直前。

 私の背後からやってきた人物により、その機会は瞬時に奪い去られてしまう。

「おまたせママ。レジが混んでて――」

 振り返るとそこには、両手にレジ袋Lをぶら下げた若い男性の姿があった。

 私は彼のことをよく知っていたし、当然それは向こうも同じはずだった。

 自分の妻の正面に立つ相手の正体に気づいた彼は、こちらに向かって一旦軽く会釈をしたのちに、やや険し気な視線をまっすぐに向けてきた。

 それに対して私は「失礼します」と早口で言い残し急ぎ足で車に乗り込むと、ろくに安全確認もしないままに道路へと飛び出す。


 ガキだった頃のわずかばかりの間、恋愛の真似事をしただけの、たったそれだけこと。

 あの出来事のあと、相当の時間を要して得られた答えがこれだった。

 いずれにせよ、それらすべてはセピアに色褪せた思い出の中の話だ。

 それは今この瞬間にも、変わってなどいないはずだった。

 ではこの気持ちは一体、なんだというのだろうか?

 私は一体、何のためにこの町にいるのだったか?

 死んだ恋人に会うとだけ言い残し、遥か遠い世界へと旅立った同級生に別れを告げるため、遠路はるばるこの町へとやってきたのだろう?

 昨日の夜に水守さんの亡骸と対面した時だって、多少の感慨こそあったとはいえ、目から涙が溢れるようなことはなかった。

 なのに今の私はといえば、こんなにも悲しくて、こんなにも切なくて、こんなにも惨めで。

 その時、つけたままでまったく耳に入っていなかった不遇のカーラジオから、私が十代だった時分に何千回と演奏したロックバンドの楽曲が流れてきた。

 歌い出しの”もし明日君がいなくなっても”という歌詞が耳に届いた瞬間、ラジオの音量を一気に下げてその忌々しい存在自体を消し去る。

『私、その曲大好きなんだ』

 無邪気そうな笑顔を浮かべてそう話し掛けてきた彼女は、今でもあの曲を聴くことはあるのだろうか。


 実家に戻ると弁当を温めずに食べた。

 風呂は明日の朝にでも入ればいいだろう。

 居間の畳の上にそのまま寝転ぶと、そこらへんにあった座布団を枕にして目を閉じた。

 とにかく今は一秒でも早く意識を失いたかった。

 自室のある離れには行きたくない。

 そこには今、昨日までは忘れていたあの頃の思い出が待ち受けている気がする。


 喉の乾きと尿意のセットメニューで目が覚めたのは、日付が今日から明日へと変わる少し前だった。

 トイレを済ませてから台所に立ち寄ると、冷蔵庫の中からビールを入手し、庭に面した広縁の縁に腰を下ろす。

 月明かりに照らし出された庭木の枝ぶりがやけに立派なのは、うちの父の趣味が庭いじりだったからだ。

 学生の時分など、うちに遊びに来ていた藤田をよく捕まえては、剪定のやり方などを熱心に訊いていたの思い出す。

 そういえばその藤田とも、ここ二年くらいはまともに連絡を取っていない。

 元気にしているだろうか? などと心配をする必要のまったくない男ではあるが、せっかくこちらに戻ってきているのだから、挨拶くらいはしたい気持ちはあった。

 ただ、明日は墓参りに行き母の荷物を受け取ったら、私はすぐにでも自分の住処に戻らなければいけない。

 この町には私の居場所などもう、どこにも存在していないことを知ってしまったから。

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