会遇
時計はまだ十八時を少し過ぎたところだったが、気持ち的にはもう今日という一日を終えたかった。
ただ、昼前に菓子パンをひとつ与えられただけの胃袋がそれを許してくれず、気が付くと緋色に染まる西の方角に向かって車を走らせていた。
行き先は市街地のスーパーマーケットで、目的は今夜の晩飯と明日の昼飯を手に入れること。
本来はコンビニで済ませるほうが楽な用事だったが、そんな近代的な施設はこの町のどこにも存在していない。
ひび割れたアスファルトの狭い駐車場に車をねじ込むと、閉店時間が間近に迫るスーパーに駆け足で入店する。
かつては父や母とよく買い物にきた馴染み深い店だが、こうして大人になってから利用するのは初めてだった。
商業施設としては異様に低い天井に取り付けられた暗い照明が照らすリノリウムの床は、よく磨き込まれてこそいるが少しだけ波打っているように見える。
そう広くない延床面積の建屋内に存在するパン屋や衣料品などのテナント店舗は、本体たるスーパーの閉店を待たずに本日の営業を終えると明かりが落とされていた。
明日の墓参りに備え、まずは店の入口近くで白と黄色の菊の花を二束確保し、続いて揚げ物の匂い漂う惣菜売り場の前に躍り出ると、数人の主婦客に混じって煮物や揚げ物を物色する。
その中から半額シールの貼られた弁当を二つ、それに数種類のサラダが盛り付けられたプラスチックトレイを選びカゴの底にそっと置く。
返す刀でビールと清涼飲料水の類を入手してから、1レーンだけ開いていたレジの列に並んだ。
五円で購入したレジ袋Mを片手にぶら下げ駐車場まで戻ってくると、ミニバンの開口部から若い女性のものと思しき下半身が生えているのが目に入った。
おそらくはチャイルドシートに我が子を括り付けている最中なのだろう。
今どきの女性らしく肉付きの控えめな臀部が忙しく左右に揺れ、そのたびにローウエストのチノパンの上部分から細くくびれた腰の素肌が見え隠れする様が目に入り、慌てて顔を背ける。
ただ悪いことに、それは私の車の運転席側で行われていたことだったので、別の場所へと逃げ隠れするわけにはいかなかった。
仕方がなく自分の靴先を凝視したまま立ち尽くしていると、やがてスラドドアが閉まる『ピッピッ』というブザーの音が聞こえてくる。
それに一瞬遅れて、「あ、ごめんなさい!」という女性の高い声が耳に届いた。
「あ、いえ」
手にした菊の花を横に振りながら声の主のほうへと目を向け――絶句した。
どうやらそれは先方も同じだったようで、彼女は私と目が合った途端に金縛りにでも掛かったかのように硬直し、切れ長な目を大きく見開くと口に手を当てながらこう漏らした。
「かな……た?」
ここは小さな田舎町とはいえ、町域の面積でいえば下手な市よりも広いそうだ。
人口も減る一方ではあったが、確かまだ一万人を割り込んではいない。
そんな場所にあるうらぶれたスーパーの駐車場で隣同士になった相手が、人生でたった一度だけ、たった一人だけの元交際相手である確率というのは、一体どのくらいのものなのだろう。
「……久しぶりだね、叶多。こっち帰ってきてたんだね」
「ああ、うん。水守さんの件で」
「あ……そか」
地元にいる彼女がそのことを知らないはずなどなかった。
「私もお通夜の前に少しだけお邪魔して会わせてもらったの」
「そうなんだ」
「彼女とは高校の三年間、委員会が一緒だったから」
「へえ」
「うん……」
そこで会話が途切れる。
彼女――
そのきっかけは、私が当時やっていたバンド活動ごっこで使用させてもらっていた楽曲が彼女が好きなグループのそれだったからという、些細かつありがちなことだった。
「私、そのバンドのその曲、大好きなんだ」
金髪のロングヘアーという、高校生としてはあるまじき容貌をした初対面の人間に対し、彼女はまるで旧知の友かのように話し掛けてきたのだった。
「自宅で練習してるの? 今度見学しに行ってもいい?」
出会って三分でこの台詞が飛び出したものだから、最初はからかわれているのかとすら思った。
ところが彼女は今度どころかその日の放課後に、本当にうちまでやって来た。
そしてその後も足繁くやってきては、たった一人のオーディエンスとして私たちバンドもどきの練習を応援をしてくれた。
それから数か月後の、高校一年の夏休みが始まってすぐのことだった。
『おい、叶多。ちょっといいか?』
バンドメンバーの藤田に突然呼び出されて向かった先は、本来であれば帰宅部の私たちが来る必要などまったくない、夏休みの学校の体育館裏だった。
「何だよ藤田、こんなところに呼び出して」
「俺だって好きでお前とこんなところにいたいわけじゃねえよ」
自分で呼び出しておいてそれはないだろう。
相対している人間が藤田以外の誰かであれば、私はきっとそう口にしていたはずだ。
だが生憎なことに、私は彼が常識の枠から逸脱した存在であることを知っていた。
「あいかわらず意味がわからん野郎だな。用事がないなら俺は帰るぞ」
「まてまてまて! 説明は出来んがとにかく叶多はしばらくここにいてくれ。もし帰ったら許さんからな!」
「なんだよ、それ」
やがて五分経ち、そして十分をわずかに過ぎた時だった。
銀色の貯水タンクの影から突如として現れた少女は、真夏の日差しを受け黄金に輝く髪を手櫛で整えながらこう言った。
「ごめんね、待った?」
「七菜? 待ったって……てか、その頭……」
「あ、うん。だってさ、叶多くんの……カノジョになるなら、まずは見た目から合わせたほうがいいかな、って」
「彼女?」
「え? だってさっき、藤田くんが電話で――」
彼女の話を聞いた私はものの四十秒ですべてを理解するに至った。
要は私と彼女が互いに想い合っていることを察した彼がお膳立てをしてくれたのだろう。
誰も頼んでなどいないのに。
それもすごく雑に。
ただ、当事者たる私をして一概に彼を責める気になれなかったのも、また事実だった。
もし自分が彼の立場であっても、あまりの焦れったさに似たようなことをしたかもしれない。
それほどに私と彼女は、『誰がどう見ても』というレベルで明け透けとした日々を送っていた。
若さゆえに。
結局、私たちはその日のうちに交際をスタートさせ、その翌日に彼女は髪を黒く染め直し、翌々日には藤田に飯を奢ることになった。
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