疑念
「……それはどういう意味だろう?」
『おねえちゃんのスマホの発信履歴に中原さんの名前がいくつもありました』
「僕の名前が? 本当に?」
『はい』
彼女は何を勘違いをしているのだろうか?
私のスマホにも『水守唯』からの着信履歴が二件あったが、それは昨夜と今の、この少女からのものだけだ。
姉の唯から電話が掛かってきたことなど、高校を卒業してから一度たりともなかった。
そのことを説明すると少女はたったひと言、「じゃあどうして」と口にしたきり黙ってしまう。
どうしても何も、それを聞きたいのはこちらのほうだった。
そもそも水守さんは遺書に『死んだ恋人に会いにいく』と書き残していたはずだ。
だとしたら体温のある私に恋人疑惑を向けること自体、おかしいとは思わないのだろうか?
「申し訳ないけど、そういうことだから」
『……』
「水守さん?」
『……ごめんな……さい』
電話の向こう側から謝罪の言葉とともにすすり泣き声が聞こえてくる。
いったい私が何をしたというのだ。
もっともこれまでの人生でも、相対した女性に泣かれたことは何度かあった。
直近では昨日の夜のことになるが、覚えている限り一度目のそれは、幼稚園児の頃に行った遠足の時であったと記憶している。
当時の私は体調に若干の不安を抱えていた。
本来であれば、その日に行われた遠足も休む予定でいたのだが、当日は珍しく健やかに目を覚ますと、親の運転する車で楽しく登園したのだった。
園からバスで向かった先は、山の斜面に広がる巨大なアスレチックだった。
頂上から斜面を下るかたちで大小様々な遊具が設置されており、それらに登ったり取り付いたりしながら麓にあるゴールを目指すという、どこにでもよくある形式のあれだ。
ほとんどの遊具は、その傍らに素通りできるルートが用意されていた。
だがそのなかに一箇所だけ、どうあってもクリアすることが前提で設置されていた物があり、件の事件が起きたのもその場所だった。
多くの園児たちが難易度の高い遊具を回避して進む中、私だけは馬鹿正直にそのすべてに取り付き進んでいた。
その結果、ものの見事にひとり山中に取り残されると、最後尾に居て然るべき幼稚園教諭の姿もみえず、正直に言えば心細さは上限に達していた。
その時、突如として目の前に空が広がった。
そして、青を背景にして佇むひとりの少女が目に入った。
『どうしたの?』
『……ここ、こわくていけないの』
うつむき涙を流す彼女が指を差した先は、たったいま私が空だと認識した場所の真下であり、そこには垂直に近いような角度――少なくとも当時の私にはそう見えた――の大きな滑り台があった。
滑り台の脇に階段のようなものでもあればと周囲を見回すも、それが一番必要であろうここに限って、どうやらそういった類のものはないらしい。
そのあとの私の振る舞いはといえば、半分は彼女のためだとしても、いくらなんでも強引過ぎたと、今になってみればそう思う。
『いちにのさんでいくよ』
『……いくってどこに?』
至極真っ当な疑問を口にした彼女は、黒曜石で拵えたような黒く大きく丸い瞳に不安の色を宿らせていた。
『目、つむって』
一度だけ深呼吸して覚悟を決めると、彼女の小さく薄い手を強く握りしめ、そして。
『いちにの――さん!』
そう言ったと同時に彼女を半ば抱きかかえるような体勢で、異様に急角度の滑り台をほとんど自由落下に近い速度で滑り降りる。
彼女は『きゃー!』と悲鳴を上げていたし、私も『ぎゃー!』と叫んだ。
ちなみに数年後になり、その滑り台は怪我人を出して撤去されたと聞いた。
あの馬鹿げた角度はやはり設計ミスだったのではないかと、私は今でもそう疑っている。
さらにちなみに、私たちを山中に残して早々に下山していた園教諭は、今や同園の副長にまで成り上がっているそうだ。
もし私に子がいたら、絶対にあの幼稚園には通わせないだろう。
閑話休題、私たち二人はそのどこかの国の部族の
が、彼女は着地点の砂地で盛大に転び膝を擦りむくと、次の瞬間には大粒の涙を流して泣き出してしまった。
焦りに焦った私がとった行動はといえば、自分とほぼ同質量の彼女を背負い、三十分も掛けて山を下ることだった。
麓のゴール地点に着いた頃、私は川にでも落ちたかのように汗まみれになり、翌朝には歩行もままならず園を休む羽目になってしまった。
翌々日に登園すると、少しだけ頬を赤らめたその女の子から『ありがとう』と感謝の言葉を掛けてもらい、私も負けじと耳を赤く染め『どういたしまして』と返した。
なぜだかはわからないが、自分が人類史に残るような偉業を成し遂げたかのような気分になったことを覚えている。
なんとも安上がりな男だ。
そして二度目は、中学二年の期末テストを週末に控えていた日だったはずだ。
クラスの皆で誰かの家に身を寄せテスト勉強をするという話になり、我が家がその誰かの家に選出された。
有志のみでと聞いてはいたが、蓋を開けてみるとクラスの三分の一ほどの人間が、砂糖を求める蟻の群れのようにやってきたのだった。
こんなことなら放課後の教室を借りればよかったのではと思ったのだが、それも後の祭りである。
もっとも当初より私の部屋が会場に選ばれたのは、静かな環境と広大な床面積を誇る離れの自室があってのことだったので、十余人の参加者は比較的容易に収容することができた。
問題はそのあとで、女子メンバーの誰かが年の離れた妹を連れてきたことによって発生した。
姉妹は母親の運転する車でやって来たのだが、帰りはその都合が合わずに歩いて帰ることになった。
しかも悪いことに、姉妹の妹が急に熱を出したというのだから、あの時は本当に困り果てたものだった。
今になって考えれば、二人いるうちの親のどちらかが仕事から帰ってくるまで待って、車で送ってもらえばよかっただけだったように思う。
結局のところ私が自転車の荷台に姉妹を乗せ、夕暮れの迫る田舎道を三十分も掛けて家まで送り届けることになった。
ぐずり始めた妹氏の、『おうちにかえりたい』コールと号泣に急かされての決断であった。
無限に続いているようにすら見える田んぼの、その真ん中の広々とした農道を、ギコギコとおんぼろな音を出しながらママチャリを走らせる。
ママチャリに『3ケツ』する姿というのはなかなか滑稽だったと思うし、田舎でなければ警察の世話になっていたかもしれない。
夕餉の匂い漂う宅地を人目を気にしながらコソコソと進み、古い家の軒をかすめて真っ暗な里山の中腹にある彼女らの家に辿り着いた頃には、すっかりと夜の帳が降りきっていたのだった――。
『あの、中原さん』
意識の外から急に名前を呼ばれ我に返る。
『あの、本当にすみませんでした。失礼します』
「あ! ちょっと待って!」
叫びに近い声をあげながらスマホのディスプレイに目をやると、そこにはすでに通話終了の四文字が表示されていた。
今の会話で彼女の疑念が晴れたのであればいいのだが。
それとも、折り返し電話を――いや。
彼女の求めているのは、姉が誰と付き合っていたのかを知ることなのだから、『繰り返すけど僕ではないしそれが誰かも知りません』と教えても何の意味もない。
私が彼女らにしてやれることは、十余年前に自転車で姉妹を送り届けたあれが最後だったのだ。
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