水守唯
帰省
ミドルサイズのキャリーバッグに数日分の着替えと礼服を詰め込み、日が高く昇る少し前にマンションをあとにした。
新幹線を使うことも考えたが連休初日の今日ともなれば、普段の通勤ほどではないにせよ、うんざりするような過剰な乗車率であることは間違いない。
駄目もとで知り合いのレンタカー業者に問い合わせてみた結果、幸いにも昨夜遅くにキャンセルされたコンパクトカーが一台あるという。
鉄道に比べれば倍どころではない交通費になるが、今から向かおうとしている田舎で足がないことの不便を考えれば、割高に感じるこの出費も元を取ることができるはずだ。
想定の範囲内ではあったが、高速道路の混みようはといえばアリの群れのような車列を視界の遥か彼方まで繋げていた。
そこに並ぶアリたちの多くは餌を巣に持ち帰る途中ではなく、私と同じように帰省の真っ只中にいるか、あるいは行楽地へと向かっている最中なのだろう。
私の車の真横に並んでいるミニバンの中では、まさにやんちゃ盛りといった年頃の幼い兄妹が、ジュニアシートから身を乗り出し楽しそうに前席の親に話し掛けているのが見える。
普段は運転など滅多にしない身としては、ベテランドライバーでも音を上げかねないこの状況に肩の力を抜く暇はなかった。
ただ、最新のレンタカーに搭載されていた運転アシスト機能が疲労の数割を肩代わりしてくれたおかげで、かろうじて今朝の出来事を反芻する程度の余力は残っていた。
『死んだ恋人に会いにいく』
水守さんの遺したという、このたった十一文字の言葉。
なぜだかはわからないが、私にはそれがこの上なく美しい一行詩のように思えた。
彼女をしてそんな意図などあったはずもないことはわかってはいたが、そう感じてしまった途端に本来なら帰る予定のなかった田舎へと足が向いていた。
高畑曰く、連絡の取れた同級生のうち数人ほどは通夜に顔を出すような話になったらしい。
このあと夕方に母校の前で集合し、皆でまとまって水守家へと向かう計画も立てられている。
一時間も渋滞の列に参加していると、ようやくにして高速道路の名に恥じないような速度で車が動き出した。
ちょうどその時だった。
つけたままでまったく耳に入っていなかった不遇のカーラジオから、十代だった時分に何千回と聴いたロックバンドの楽曲が流れてくる。
私はその曲が大嫌いだった。
歌い出しの”明日もし君がいなくなってしまっても”という歌詞が耳に届いた瞬間、ラジオの音量を一気に下げるとその存在もろとも世界から消し去る。
代わりに窓を少しだけ開け、アウターミラーが風を切る音とタイヤが路面を転がる単調なノイズに眠気覚ましの刺激を求めることにした。
数回の休憩を挟みながらひたすらに高速道路を走っていると、ついさっきまで東の空の高い場所にあったはずの太陽が、いつの間にやら進行方向にあたる西側から運転席を強烈に照らしていた。
ルーフの前方に取り付けられたバイザーで日光を遮りながら、尚もアクセルを踏み続けていると、ようやく中間目的地のインターチェンジが見えてくる。
等速直線運動のみで走っていた車に数時間振りの横Gを加え、やがて降り立った下道をさらに西へと進み続ける。
自身で運転する車で来てみて改めて思ったことがあった。
私の生まれ育った田舎とは、なんという僻地にあったのだろうかと。
出発してから六時間が経っていた。
空にオレンジ色の成分が若干加わり始めた頃になり、やっとのことで目的地である町の景色が見えてくる。
四方を低い山に囲まれた小さな盆地のそのほとんどが、夏の緑色をした田や畑によって占められている。
一万人ばかりしかいない住人はその一部を間借りするような形で、最低限の衣食住に事欠かぬだけのミクロな市街地を形成して暮らしていた。
当初は実家に荷物を置いてから集合場所に向かう予定でいた。
だが、今朝の電話の主である高畑を迎えに行く時間が目前に迫っていたので、予定を変更して彼の家へと直行することにした。
スマホのナビに入力した住所は集合場所の高校からそう遠くはないはずだが、そこは私の実家とは間逆なこともあり、足を踏み入れた記憶のほとんどない未知のエリアだった。
メーンストリートの県道は、かろうじて二車線分の幅員が確保されてはいるが、半分消えかかったような路側帯側の白線の外側はすぐに田畑になっており、田舎の運転に慣れていない身としては非常に心許ない。
三〇キロの制限速度に忠実に従いながら車を走らせること十五分。
目的地への到着を知らせるナビの音声と一緒に車を止めると、目の前にはいかにも古民家といったふうの日本家屋が一軒だけ建っていた。
スマホを取り出し、着信履歴の一番上にあった名前をタップする。
そして、受話口に耳を当てようとした、その時だった。
背丈ほどもある槇囲いの真ん中にある切れ目から、見覚えのある青年が手を振りながら出てくるのが見えた。
生真面目そうで背が高く、やや直毛気味の短髪。
学生時代の彼と何も変わっていないように見えた。
「久しぶり。今ちょうど電話しようと思ってたとこだよ」
「庭先にいたら車の音が聞こえたから。叶多君かなと思って」
六年半ぶりに会った友人は人懐こい笑顔でそう言うと、槇の木の向こう側にある自宅を指さしながら言葉を続けた。
「中で着替えてってよ。まだ少し時間があるからお茶でも出させてよ」
案内された和室で礼服に着替えていると、やがて盆に茶を載せ戻ってきた彼と一息つく。
「叶多君はあっちで何してるんだっけ?」
「ああ、うん。旅行代理店でプランナーしてる。零細だけどね」
「叶多君に向いていそうな仕事だね」
彼が何をもってそう思ったのかは知らないが、確かに今の仕事は自分に合っていると感じていた。
それに私の部署に限っては、ほぼカレンダー通りに休みがもらえるというのも魅力のひとつだった。
もともと狭い町で生まれ育ったせいだろう。
大学進学で出た都会ではすべてのことが目新しかった。
在学中にはバックパッカーの真似事をして海外に足を伸ばしたこともある。
そのせいで卒業するのに人より一年余分に掛かってしまったのだが、それはまあ。
そんな理由で、旅だったり知らない土地に強く興味を抱くようになった私は、卒業後も都会にとどまり今の職場に勤めるようになった。
「高畑は農業やってたんだっけ?」
「そうだよ。親父とお袋と僕と奥さんの四人でね」
「え? 高畑って結婚したんだ?」
「あ、そういえば叶多君には言ってなかったね。式はまだなんだけど、今年の五月に籍だけ入れたんだよ」
「それはおめでとう。式はまだって?」
「それがさ。その……デキ婚ってやつでさ。年末くらいには生まれるから、やるとしても早くてそれ以降かな」
道理でといったらあれだが、私が知る高校時代の彼と、いま目の前にいる彼は――再会してまだ十分ほどしか経ってはいなかったが――まるで別人かのように活気に溢れて見えていた。
農家という体を使う仕事に就いているせいもあるだろうが、サーファーのように日焼けした肌と逞しい体つきに、これから父親になる男の持つ説得力のようなものまでをも感じた。
首を縦に振り納得顔をしている私を見た彼は、なんだかばつが悪そうな、それでいて満更でもないような顔をしてみせる。
照れ隠しからか、彼はポケットから加熱式タバコを取り出すと口に咥えた。
「あ、いい?」
それは『ここでタバコをやってもいいか』ということだろう。
「ああ、どうぞ。でも、それもそろそろやめないといけないね」
「いや……はい、まったくその通りです」
大笑いをしながらタバコの蒸気を燻らせる彼としばらく談笑したあと、連れ立って乗り込んだ車で懐かしの母校へと向かう。
西の空はいよいよ日暮れを感じさせる色へと移ろい始めていた。
四方を山々に囲まれたこの町は、他所の世界よりもひと足早く日暮れの刻を迎えつつあった。
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