新たな出会いとマングローブ(一)

 2月24日の木曜日。

 アパートで遺体を発見してから二週間が経った。2月も終わりに近付き急に暖かくなってきて、空気中に小さな虫の姿を見るようになった。

 先週と先々週は精神状態が不安定で、夜は悪夢にうなされ、日中は家事の途中でぼんやりしてしまうことが多かった。

 現在は……まだ完全とはいかなくとも、春の到来を歓迎できる程度には回復できたと思う。先週お断りしたポスティングの仕事も再開した。配達場所は、二週間前と同じ地域。


 仕事始めは緊張した。同じルートを辿ることによって、あの日の光景がフラッシュバックするのではないかと。

 だけれど案外平気だった。相棒のランニングシューズを履いた脚は軽やかに動いた。

 カタン。チラシがポストの底に落ちていく音が心地良い。平凡な日常に戻ってこられたのだと実感した。それがとても嬉しかった。


「日比野カナエさん」


 私をフルネームで呼ぶ声がした。振り返った視線の先には、相変わらず髪型が四方八方に散らかるボサ男が居た。コートではなくパーカーを着る彼を見て、ここでも春を感じた。


「ええと、クルス、サイ……くん?」


 私も彼のフルネームを呼ぶことで返した。いまいち記憶に自信が持てなかったので、疑問形になってしまったけれどね。


「やっと会えた」


 訂正されなかったので、ボサ男の名前はそれで合っていたようだ。

 ボサ男改め、久留須才クルスサイ。警察の事情聴取で得た情報だが、幼く見えた彼は今年の4月に24歳となる。運転免許を取得しておらず、健康保険証も所持していなかった為、警官への身分証明に苦労していたな。

 才は配達途中の私に、早足で近付いてきた。


「もっと早く会いたかったけど、連絡先を交換してなかったから」


 彼の発言に私はポカンとした。


「ん? 私と会いたかったの?」

「ええ、いろいろと話したくて。今日配るチラシは残りどれくらいですか?」


 首を伸ばして、才は私の仕事鞄を覗き込んだ。この不作法者め。


「あと少しですね。付き合いますから、ちゃちゃっと配っちゃって下さい」


 何ということでしょう。既にこの男の中では今日、私と語り合うことが決定事項となっているようです。


「あのね、久留須くん」

「才でいいです。僕もカナエさんって呼ぶんで」

「えっ」


 まだ会って二回目だよね?


「あの、親戚でもない成人男性と下の名前で呼び合うってのは、その、どうなんだろうね。世間的によろしくないんじゃないかな?」

「ああ、僕そういうの気にしないんで」


 いや気にしろや。私あんたより二十以上年上なんですが。そもそもこういうことは、年長者の方から提案するものでしょーよ。

 私は呆れつつ投函作業に戻った。当たり前のように才は並んで歩いていた。


「カナエさんは先週、別の地域を回ってたんですか?」

「ううん、仕事自体しなかったんだ。事件のショックを引きずって、配達ミスしちゃいそうだったから」

「どおりで。待ってても会えなかった訳だ」

「ん?」


 不穏なワードが聞こえた気がした。


「……待っていた?」

「ええ。前回カナエさんと出会った場所で、同じ時間帯に待っていれば、また仕事してるカナエさんに会えると思ったんです」


 ぞわり。背中に何やら冷たいものが走った。そういえばこの辺りって、才が指を怪我して地縛霊みたいに佇んでいた所だ。


「え、でも、あなただってポスティングしているんだし、そうそう上手く会えないでしょう?」


 前回はたまたま互いのルートと稼働時間が一致しただけ。基本的に自由に動くのがポスティングスタッフだ。狙って会うのは難しい。


「カナエさんは、お子さんの居る主婦だって言ってましたよね?」

「ああ。刑事さんにね」


 一緒に事情聴取を受けたので、私の情報も才に伝わっていた。


「だからポスティングする時間は、いつもだいたい同じだと思ったんです」


 そうだね。独身の頃と違って、家庭を持つと自分が使える時間は限られてしまうからね。


「それでもチラシの内容によって、配達ペースは多少ずれるよ。すれ違う可能性の方が高くない?」

「その可能性は予め考慮して行動しました。だから出会った時間の前後一時間、その時間帯はここでカナエさんを待つことに専念して、俺の仕事はそれ以外の時間に済ませました」


 ひぃ。


「……先週もここで待っていたの?」

「はい」


 当たり前のように言わないで。


「一日およそ二時間も? 今週合わせて二週間もずっと?」

「ずっとです」


 どうしよう、この子怖いよ。


「久留……、才くん、あなた就活中だって言っていたけれど、時間は大丈夫なの?」


 お小遣い程度しか稼げないポスティングスタッフは、私のような主婦かシニア世代が暇つぶしにやる仕事だ。若者にとっては本命の仕事に就くまでの繋ぎ。

 オバさんをストーキングする時間が有ったら、企業へ向けてエントリーシートの一枚でも作成するべきだ。


「ああ~、そのことですか」


 才は所在無さげに、自身の纏まらない髪の毛を指先で引っ張った。そして語った。全く深くない身の上話を。

 勉強が得意な才は、なんと六大学の一つを卒業していた。しかし就職活動では書類選考と筆記試験は通るものの、面接や就活生同士でやる模擬ルーチンワークでいつも失敗してしまうらしい。

 香川県出身の才は大学進学を期に上京し、親御さんから仕送りしてもらって、卒業後も東京で独り暮らしをしている。就職浪人一年目は故郷の親御さんも寛容だったが、来年度の就職も見込めないとなった現在、仕送り額を大幅に減らすと宣言されたそうな。

 そこで急遽、才は減額分を補う為に働きに出た。彼のポスティング歴はまだ、一ヶ月そこらだった。


「俺、人見知りが激しくて。よく知らない相手の前だと凄く緊張して、上手く喋れないんです。この仕事ならポスト相手だし、たまに住人に会っても会釈するくらいで済むから……」

「そういえば、私と初めて会った時もそうだったね。でも今はとても堂々としているよ?」


 図々しいほどに。絆創膏をあげた時の初々しいボサ男よ、帰っておいで。


「遺体を二人で見に行ったし、警察の事情聴取も一緒に受けたし、何て言うのか、カナエさんにはシンパシーを感じるんです」


 動物園に一緒にパンダ観に行ったように言うなや。そんなつもりは無かったのに、マズイことに懐かれてしまったようだ。


「でもそうか、それでポスティングの仕事にね」


 アルバイトでも焼肉店や居酒屋なら高い時給を貰える。しかしそれらは接客業だ。社交性が乏しい才には厳しい職種となるのだろう。

 ずっと頑張って勉強してきたんだろうに、私は少しだけ彼に同情した。

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