目的のない命

 キノエは土にまみれて汚れた、しょうこの服を持ち帰った。なんの意味があるのかは自分でもよく解っていない。ただ、水が抜けてだだ広い泥濘となった場所に、放置したくなかった。なにもせずに、しょうこの身につけていたものを、腐るに任せるにするのが、忍びなかったのかもしれない。


 家につくと、当然だが水緒はすでに寝ていた。その様子に安堵した自分に気づき、自己嫌悪する。話を先延ばしにできることに、ほっとしたのだ。しかも身体は正直で、張りつめていたものがそれで切れてしまったのか、猛烈に体と瞼が重くなってきた。


 抗いがたい本能に負け、汚れた恰好のままで布団に入った。頭の中で自分を罵倒する言葉を繰りかえしていたが、やがて言葉はほつれて細かくなっていき、意識は先細って途中で途絶えた。


 翌朝、布団の中で細く目を開いてキノエは目を覚ました。


 体が重い。頭も重い。ついでと言わんばかりに折れた足の痛みも重くなっていた。昨日、無理をしたからだろう。だが一番重いのは心だった。居間に行けば水緒がいる。そうしたら、姿のないしょうこについて説明しなければならない。


 体を起こして両手で顔を覆った。起きた出来事を説明するだけなら簡単だ。「〈怪もの〉だったしょうこさんは、私が気づいた〈祓い〉をしたからいなくなったよ」。言えるわけがない。自分を殴りたくなった。言えない理由を探して、楽をしたがっている思考が優先している自分が情けなかった。


 板戸の向こうで足音がする。水緒はもう起きている。一瞬、下劣な想像をする。このまま水緒が森へ遊びに行ったら、自分はそのときどうするだろうか? 気が沈みすぎて、心底にある汚れたものしか意識に浮上してこない。溜息すら出なかった。


 どたどたと床を踏む音は途絶えない。しょうこを探しているのだろう――考えていると、足音は真っ直ぐにこちらに向かってきた。


 すぱん、と乾いた音を立てて、水緒が板戸を開いた。


「キノエ、起きて。早く行こう」


 なにを言われているのか解らなかった。こちらの目を見据える水緒が、反応が返ってこないことに小首を傾げた辺りで、ようやく「出かけよう」という趣旨の呼びかけがされたと気づいた。次に「どこへ?」という疑問が湧いてきた。


 相手が雑嚢を背負っているのを見て、昨夜の会話をキノエは思いだす。そう言えば、自分の住んでいる集落ムラに連れていくということになっていた。あれは、しょうこが吐いた嘘だったのだろう。同時に、水緒の世話を見てくれと、暗に込めた願いだったに違いない。


「なにしてるの……あ、もしかして朝のご飯食べないとダメ?」


 思いついたように水緒は言った。しょうこの姿が見えないことには、まったく触れてこない。あるいは、まだ気づいていないのだろうか。なんにしろ、このまま黙っているのは不義理だった。


「水緒、しょうこさんのことだけど……」

「お母さん? 沼と一緒に行ったみたいだよ」


 さらりと、こともなげに水緒は言った。


 驚きのあまり、瞠目した。


「……なにがあったのか、知ってるのか?」


 キノエの問いに、水緒は怪訝そうにする。


「お母さんの〝声〟が、沼のほうで聞こえなくなったから、たぶんそうかな、って。お母さんは『沼の子』で、沼が外に行きたがってたから、一緒に行ったんだと思う」


 それがどうかした? と尋ねる水緒は、母親との別離を悲しんでいる様子はなかった。


 死生観が異なるとは思っていたが、あまりの隔たりに頭が追いつかない。あまつさえ、水緒が昨夜の出来事の一端を理解しているという理屈がつかない状況で、疑問の奔流が脳裏で暴れまわっていた。


「……いや、なんでもない」


 混乱の極みにあった思考を、一度馬鹿になった気分で堰きとめて言った。


「今から荷物まとめるから、外で待ってて」

「えぇ……なんで昨日準備しておかなかったの……」

「いいから、行った行った」


 不承不承という様子で水緒が部屋を出ていったのを見届けると、キノエは布団に大の字に寝転んだ。


「わけが解らない……」


 口に出したところでなにが変わるわけでもない。ただ、状況を言葉にして認めることで、冷静になれた。堰きとめていた思考を少しずつ開けながら、キノエは新たに湧いて出た疑問を掬っていく。


 水緒は、しょうこの〝声〟が聞こえると言っていた。それは、〈泥人ひじと〉が感じる〈胞衣えな〉の〝声〟と同じものなのだろう。〈泥人〉の娘である水緒は、母であるしょうこの〝声〟を感じられていた。


〝声〟というのが霊的なものとキノエは考えていなかった。現象としての延長を示す非物質的な波――それこそ、電磁波の受信のようなものに違いない。その波の発生源が、脳なのか、それとも体を構成している〈灰泥へどろ〉なのかは、この際どうでもいい。肝要なのは、なにかしら情報のやりとりを〝声〟という形で感覚している点だ。だから、〈胞衣〉が消える――沼の〝声〟が聞こえなくなることで、〈泥人〉は現象の終わりを確認し、物理的な繋がりなしに消失したのだ。


 しかし、そうすると新たな疑問が湧いてくる。〈胞衣〉という現象の一部であるとはいえ、〈泥人〉が〈怪もの〉であることに変わりない。ならば、〈泥人〉であるしょうこも目的を果たしたのだから、彼女の〝声〟が聞こえていた水緒も連鎖的に消える道理ではないのか?


〈怪もの〉は目的を果たせば消える。そういう性質の現象だ。しかし、現に水緒は消えていない。水緒だけが特殊と考えるべきか――いや、その仮定はなんの説明にもなっていない。連鎖反応が起きなかったということは、〈胞衣〉としょうこ、しょうこと水緒の間に、それぞれ相関はあっても、〈のだ。


 つまり、しょうこは〈泥人〉として、〈胞衣〉の現象であったと同時に、子を生して現象であったと考えるべきだ。ならば、それに連なる水緒が消えていないのは……しょうこは、一つの〈怪もの〉として目的を果たしていない。


 しかし、しょうこはもう消えてしまった。それは『〈胞衣〉の一部』としての目的を果たしたからだ。だが、水緒が消えていない理由――『母親の〈泥人〉』としての目的はなんだ? それに、消えてしまったというのに、〈怪もの〉としての目的を果たしていないというのが、すでにおかしい。それでは、『母親の〈泥人〉』として存在した現象は、なんの目的もなかったことになる。


 そんなものがあるだろうか。


 この世に、目的のない現象など――


「あぁ、いや」


 キノエは気づく。


「命か……」


 すとん、となにかが落ちた。


 すべて、合点がいく。納得できる。というよりも、自らの思い至った結論以外に、もう考えを巡らす気がなかった。


 しょうこは『生命』ではなかった。しかし、命は持っていたのだろう。命に目的はない。だから、しょうこは果たすものもないし、そこから生まれた水緒も消えることはない。〈泥人〉は、しょうこは、命を持った〈怪もの〉だったのだ。だから、繋いでいける。目的のないものは、完結しないからこそ続いていく。いずれ、水緒が子を生したとしても、やがてその〝血〟は混ざり、薄れ、顕れる形質は減り、深い深い場所に潜むだけになる。


 それでも、続いては行くのだ。



 まとめるほどちらかっていなかった荷物を、手早く背嚢に詰め、キノエは家の外に出た。


 玄関口では、落ちつきなく爪先で土を掘って遊びながら水緒が待っていた。こちらに気づくと、早く来いと言わんばかりに手を振ってくる。


 夜の明けた集落ムラは、昨日までと様相が変わっていた。


 沼からの水が途絶えたせいで、用水路のせせらぎが消えて、しんと静まりかえっている。打ち捨てられていた《シカロ》という集落ムラは、これで完全に死んだのだ。水田にはまだ水が残っているが、陽光を照りかえす水鏡と呼べる姿はもうなく、浅い水たまりがいくつか残るばかりで、割れた鏡の破片のようだった。


 それでも自然ではあり得ない開墾された窪は残っている。生簀代わりだった水田の水がなくなったせいで、剥きだしの地面でニジマスが跳ねている。もうしばらくもすれば、ご馳走だらけの場所を獣たちが訪れ、ゆっくりと畦を崩していくだろう。そうして、取水と排水の口は潰れ、雨水が溜まり、やがて新たな沼となる。


 この場所を教えて、新しい住民を呼びよせることもできる。しかし、キノエにはその気はなかった。さんざん〈胞衣〉の恩恵にヒトがあやかったあとだ。一度、森に返すのが道理というものだ。せめて物好きな誰かが気づくまで、今はまだ、自然に任せるままにしておきたい。


 水緒と連れだって、キノエは腰を落ちつけている集落ムラへ向かいはじめた。その道すがら、ぽつりと訊いてみた。


「しょうこさんがいなくなって、悲しくない……」


 水緒はきょとんとした顔で「なんで?」と言った。


「寂しいけど悲しくはないよ。お母さんは沼の一部だから、沼と一緒に行くのが自然でしょ?」


 水緒は空の色を尋ねられたような不可思議そうな顔をする。やはり、水緒は自分と別のだった。しかし、今はその違いはそれほど気にならなかった。青に抱く感情が違うのは当然だ。見ている〝青色〟は同じだが〝青さ〟が違うだけで、それは人間も同じだ。


 水緒が訊いてくる。


「キノエは悲しいの?」


 問われ、考えてなかった自分の内を見つめなおす。改めるまでもなく、心のうちには穴が開いていた。


「そうだね……命がなくなるのは、やっぱり悲しいね」

「その、命っていうのは、どこにあるの?」


 予想外の問いに、キノエを目を丸くした。そして、微笑いながら答える。


「さぁ、どこだろうな。私も知らない」

「ふぅん。どこにあるかわからないものを失くして、悲しむだなんて変だね」

「まったくだ」


 そして、在処を知りもしないものを、知った風に悩むのは、もっと変だろうな、とキノエは妙な笑いが込みあげてきた。


「でも、意外。キノエも知らないことはあるんだね」

「そりゃあるさ、私は特殊なだけで特別ではないからね」


 隣で水緒が、集落ムラの跡地のほうに目を向けながら、独り言のように呟いた。


「探せば見つかるものなのかな、命」

「見つかるさ、きっと」


 今はまだ解らない。


 けれど、きっといつか、知る日がくる。知識や定義の向こう側、固くなく溶けこむような身近さで『生命』を越境した、誤謬のない目を持つたちの世界が訪れる。彼らが見つける、傲岸さも不遜さもなく、正しく自然に受けとめられる形の


「きっと、ある」

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