沼の娘

 夜の沼は昼間とは違う顔をしていた。


 開けた空から月明かりが照らし、静かに揺れる暗い水面に、崩れた月が縦に伸びている。どこかで虫たちが旋律を奏でているが、それが静けさを誇張し、夜の黒をいっそう重く感じさせる。天秤イチョウの影が、巨大な不気味な案山子のようだった。


 キノエの持つ行灯は、沼の辺りゆいいつの光で、月に向かっていた飛んでいたはずの蛾が誘われてくる。蛾が行灯の覆いの紙にぶつかり、ぱちぱちと音を立てながら光を遮るせいで、灯りが奇妙に揺らめき、明滅する蛍火のようになっていた。


 息を切らせながらキノエは当たりを見回す。灯りを持っているはずのしょうこの姿を捜すと、すぐに沼の樋門のほうに小さな光を見つけた。樋門の土台になっている石積の影に隠れていて小さいが、確かに明かりがある。


 やっぱりか――しょうこのいる場所を見て、キノエは舌打ちをする。嫌な予想が当たってしまった。


「しょうこさん!」


 姿は見えないが、そこにいるだろう相手にキノエは声を張りあげて呼びかける。樋門に置かれている明かりと森の木陰の間で、もそりと動く影があった。


「沼の水を抜くのをやめるんだ」


 ややあって闇の中から返事がきた。


「よく、ここがわかりましたね」

「……気づいた理由は、三つある」


 キノエは樋門に向かって歩を進めながら話す。


「一つ目は《シカロ》の水田だ。お世辞にも、見る限りあの水田の跡地は、そこまで質のいいものじゃない。いくらなんでも、長年稲作をしている住民にしてはおざなりだ。それでも十分な収穫が得られていたのなら、その理由はきっと、田の管理を雑にしても大丈夫なほど〈あおまし〉が豊かだったんだろう。そう、それこそ


 キノエが《シカロ》を散策したときに抱いた違和感の正体はそれだった。集落ムラの規模に比べて水田の規模が大きすぎ、集落ムラの奥の田――新たに開墾されたもの――ほど、質が悪くなっていたのは、粗雑でも実りが得られる状態にあったからだ。


 つまり、しょうこという〈泥人ひじと〉の存在により、《シカロ》は自然に恵まれるようになっていた。農業に手間をかけずに済むのであれば、その分の労力は別に割けるようになる。ならば当然、生きるために楽な仕事をするだろう。


「二つ目は厨芥だ。しょうこさんたちは稲作をしていないし、他に畑を作っている様子もなかった。いくら沼で魚が豊富に獲れて、母娘二人だけとは言え、それだけで集落ムラの外に出ずに十数年も暮らせるはずがない。けれど、肥溜めには、それで量の厨芥しかなかった」


 厨芥を捨てに行ったとき、肥溜めには数匹分の魚の骨しかなかった。キノエが滞在を始めてから数日だ。毎日一食は魚を食べていたとしても、三人分の生活から出る厨芥としては少なすぎる。その理由は単純に、キノエ以外は食事をしていないからだ。


 思えば、事あるごと水緒がキノエの食事の様子を珍しがるのも無理はない。水緒からすれば、キノエは異様な量を食べる人間に見えたのだ。


「そして最後が決定的だった。水緒から、しょうこさんは十日に一度しか食事をしないって聞いたことだ。それは明らかに――人間じゃない」


 水緒だけならば、〈泥人〉の体質として自己完結して納得していた。しかし、しょうこのほうが食事量が少ないとなれば、この母娘は常人ではないと結論する以外なくなる。


 おそらく、しょうこの血は水緒のそれよりも透明に近く、加えて。人間よりも遥かに代謝能力が低く、摂取した食物が体に取りこまれるまで――食後の高血糖状態――の時間が異様に長いはずだ。普通の人間と比べれば、肉体が冬眠をしているような状態に見えるだろう。


「……しょうこさんは、んだろ」


 そして、自らを〈泥人〉だと知っており、〈祓い〉の方法を知っているしょうこが、わざわざ沼を訪れた理由で、思いつけるものは少ない。


 しょうこは、自らの手でをつけようとしている。


「そうですね。でも、理解したのは、あなたから〈怪もの〉のことを教えてもらったときです」


 キノエは自分の愚かさに怒りを抱く。だとすれば、しょうこは初めから自分が〈祓い〉を受けることを望んでいたのだ。自罰や贖罪のつもりなのだろうか、推し量ることはできない。いずれにしろ、そのきっかけは、自分が〈祓い〉の方法を見つけ、口を滑らせたことだ。


 キノエはそんな終わりかたを認める気はなかった。少なくとも、〈泥人〉は害のある現象ではない。《シカロ》に起きた出来事は、いくつかの偶然が重なった不幸だったとしか言いようがないのだ。〈怪もの祓い〉は調停者でも断罪者でもない。罪を勘案して〈祓い〉をすべきか否かを決めるなど、傲慢がすぎる。ましてや、意思を持った当事者が自らに〈祓い〉をするなど、なのだ。


 周囲が暗く、樋門まではまだ距離があり、向こうの状態はよく見えない。巻きあげ式の水門とは言え、女一人の力では、開ききるには時間がかかるはずだ。だが、少しの隙間でも開けば水は流れだしていく。沼の水が抜け切る前にしょうこの元へ行き、樋門を閉じる必要がある。


 しょうこの手を止めさせ、近づくための時間を稼ごうとキノエは口を開いた。


「しょうこさんがそんなことをする必要はない。水緒は普通の人間として暮らすことができるんだ」


 しょうこの姿は、仄暗い中で濃い灰色の人型にしか見えない。口を開いたかも判らない影法師から、言葉が返ってきた。


「それは、どういう意味ですか?」

「しょうこさんが〈泥人〉なら、《シカロ》に起きたことの説明がつくからだ」


 迷ってくれただろうか。相手の表情は見えず、声色も落ちついている。感情を読みとる術がないが、今は話を引き延ばして少しでも樋門に近づく他ない。


「私たちの《一族》に伝わっている記録では、〈泥人〉は集落ムラを呑みこむほどの影響力を持った現象じゃない。現に、《シカロ》も水緒が生まれるまでは無事だった。その理由は単純だ」


 少しずつ距離はつまっていく。しょうこの影は、直立したままで樋門を開けている様子はない。気取られず、急ぎすぎず、ゆっくりと歩いていく。


「〈あおまし〉を引き寄せるものが増えた――水緒が、だ。〈泥人〉と半〈泥人〉が同じ場所にいることで、影響力が二重になって、それまでの均衡が崩れたんだ」


 樋門の土台の前まで近づいた。しょうこの影は精細度を増して、ようやく服のしわや色がはっきりとしてきた。しかし、灯りが彼女の足元に置かれているせいで光が遠く、未だに顔は見えない。


「沼の水を抜いてしまったら、しょうこさんは〈怪もの〉として終わりを迎える。それは、死も同然だ。そんなことをしなくてもいい。水緒に普通の暮らしをさせることはできる……しょうこさんと、離れ離れになれば」


 キノエの言葉の終わりの語勢は弱かった。ゆいいつ提示できる解決策でありながら、それがしょうこの望むものではないと思っていたからだ。娘に普通の人間として暮らしをさせたいという願いは、当然その場に母である自分も共にいたいものだろう。


 二人が一緒にいることはできない。それが〈怪もの祓い〉として、キノエのぎりぎりの譲歩だった。


 しょうこの行動を否定するためにキノエは続ける。


「〈泥人〉への〈祓い〉は、沼の水を抜けばいいのは確かだ。けど、そのとき〈泥人〉の娘である水緒に現れる影響は解らない。しょうこさんはそれでもやるのか?」


 ほとんど脅しだった。娘を人質に取るようなやり口は嫌だったが、それでもキノエはしょうこを止めることを、自分の人間性よりも優先していた。少しでもいいから迷いが生まれ、行動に躊躇いが生まれてほしい。


 しばらく黙っていたしょうこが言った。


「それは大丈夫です。あの子はわたしと違い、沼の〝声〟が聞こえていないようですから。沼との繋がりがないのでしょう」


 それはキノエも予想していた。〈泥人〉を生む胎である沼――〈灰泥へどろ〉の群体である〈胞衣えな〉――は、赤子の遺体を取りこんで、自らの端末として独立した個体を生みだす。端末である〈泥人〉の目的は、溜まった〈生体通貨〉の消費の促進だ。〈泥人〉には新たな〈泥人〉を生みだす能力はなく、しょうこの娘である水緒は、あくまで人間としての能力で産み落とされ、〈泥人〉の形質を継いだだけにすぎないのだろう。


 しょうこの言う〝声〟は、沼に向かう道中で水緒が話していたことだ。あのときキノエは、〝声〟を《シカロ》の住民の風習のようなものと思っていた。しかし事実は違った。それは、しょうこだけに聞こえているもので、〈胞衣〉に繋ぎとめられる〈泥人〉の本能的な感覚の現れに違いない。そして、水緒は沼の〝声〟は聞こえないと言っていた。ならば、沼がなくなったところで水緒にはなに一つ影響はないはずだ。


「だけど、お互いに離れて暮らせば、普通の人間の暮らしができる。たまに会うぐらいなら問題もない。とにかく、しょうこさんがそんなことをする必要はない!」


 もはやただの感情論だった。どうにか相手を理詰めで説得しようとしたのに、相手を論壇から下ろす方法がないと判ったら、最後には自分の信念に頼るしかなかった。


 あなたは、優しい人ですね――優しく、どこか寂しさを湿らせた言葉だった。


「同時にとても理性的です。わたしのすることを『自殺』とは決して言わず、〈怪もの〉として扱っている。それでも、止めようとしてくれている」


 自分でも気がついていなかった無意識の言動を指摘され、キノエはたじろいだ。害ある〈怪もの〉には〈祓い〉をすべきと言っておきながら、いざその相手が人間性を見せただけで、そこに忌避感を抱いている。そのくせ、相手は『生命』ではないと根深い確信を持っているのだ。しかも、しょうこが〈泥人〉と知る前は、水緒を〈怪もの〉と決めつけて、勝手に煩悶していたのだ。


 それでは〈怪もの〉が『生命』か否かなどいう理屈は吹き飛んでいる。自分の価値観だけで、害の有無を判じようとしているのだ。自らの賢しらさが、あまりにも恥ずかしくてキノエは赤面した。


「初めにお話ししたように、私は死産の赤子でした」


 しょうこは言う。


「母もそのときに死んでしまい、遺体は沼に還されました。しばらくして、沼のほとりで泣くわたしが見つかったそうです。集落ムラの人は、沼が送りかえしてくれたのだろうと考え、わたしは『沼の子』という意味の名をつけられました」


 なめらかに、口を挟む余地もなく、滔々としょうこは身の上を語り続ける。


「母を深く愛していた父は、わたしを嫌いました。幼いころから、わたしは小食というにはあまりにもものを食べず、今の水緒よりもずっと少ない食事しか必要としませんでした。それでも健康だったわたしが、きっと気味が悪かったのでしょう。自分の腕に抱きかかえる前に死んだはずの子と『沼の子』が、同じ子だと思えないのも仕方ありません。父からすれば、『沼の子』は母の面影を残した、得体の知れないだったのです。父はほとんどわたしと目を合わせず、それでも周囲の目があるから仕方なく引き取ったという具合でしたので、わたしはほとんど、祖母に育てられました」


 今のうちに樋門の土台を登ってしまえばいいのに、なぜかキノエの身体は動かなかった。しょうこの話に聞き入っている――というよりも、聞かなければ、誰かが知っておかなければならないと、奇妙な責任感が地面に足を縫いとめていた。


「体が成長しきるころには、もうほとんどものを食べる必要性はなくなり、沼の水を飲んでいれば大丈夫でした。幸い、『沼の子』として知られていたわたしは、多少おかしなところがあっても、祖母の言いつけでそれを明け透けにしなかったので、集落ムラで受けいれられていました……今思えば、祖母はわたしが〈怪もの〉だと気づいていたのかもしれません」


 しょうこは屈んで、行灯を手に取った。しかし、持ちあげずに腕をだらんと伸ばしたまま体を起こしたので、顔は見えないままだった。


「そして、キノエさんと出会い、〈泥人〉のことを教えられたとき、ようやく理解しました。あぁ、わたしのせいだったのだ、と。わたしは気がつかないふりをしていたんです。おかしいのはわたしだと、少し考えれば解ることなのに。すべて、私が悪いのです」


 絞りだすような、それでいて道理を語るような声で、しょうこは言った。


「わたしは〝悪いもの〟なのです」

「それは、人間が決めたことだ。しょうこさんは――」

「いいんです」


 強い拒絶だった。しょうこの心はもう固まっている。こういうとき、相手になにを言っても慰めにしかならない。もう、自分の中であらゆることが腑に落ちていて、心に取りこまれるほどに血肉となっているのだ。そこまで心身に馴染んだ想いを取り除く言葉をキノエは持っていなかった。、と言葉を探すがなにも見つからない。


 しょうこの言葉だけが続いていく。


「人間は、〝悪いもの〟を厭います。もし、〈怪もの〉として果てることもなく、自分が害あるものと知りながら生き永らえたとしたら、わたしはなにになるのでしょう。人間としても〈怪もの〉としてもわたしは、なにになれるのでしょう」


 喋りつかれたのか、ふぅ、としょうこは一息吐く。そして、流れるように、明日の天気を見るような、とても軽い調子で言った。


「だとしたら、わたしはとして終わりたいのです」


 しょうこは、行灯を手にしたまま樋門の土台を降りはじめた。彼女の影が緩やかな坂を下り、こちらに近づいてくる。なぜ――ここで突然心変わりしたのか? 相手の急な動きの変化に、キノエは困惑する。しかし、その疑問は次の瞬間に氷解した。


 ごぼり、と音がした。


 水と空気が混ざる音。キノエは思わず音のしたほうを見る。水面に映っていた崩れた月が、いつの間にか、さっきよりも低い位置にあった。理解と同時に無力感に襲われた。しょうこは、キノエが到着するずっと前に、樋門を開けきっていたのだ。キノエは水が抜けきるまでの間、しょうこと無駄な話をしていただけで、むしろ相手の時間稼ぎに協力していただけだった。


 樋門の土台を降りたしょうこがやってくる。彼女の顔を、ようやくはっきり見て取れた。どこか涼し気で、すっきりとした顔で、満足げな薄い笑みを浮かべている。


「しょうこさん……」


 呼びかけたが、それ以上の言葉が出てこなかった。


「子供の頃、夢を見たんです」


 沼のほうを見つめながら、しょうこが言った。


「とても好きな歌を、歌う夢でした。その曲の詞を気に入っていて、わたしは楽しくて何度も何度も歌いました。しかし、目が醒めると、その歌をもう一度歌うことはできませんでした。当然です、その歌は、のですから」


 その言葉こそ口ずさむような調子で、言葉通り、音のない歌のようだった。


「そう、これはきっと夢なのです。〈怪もの〉であるわたしが見るはずのなかった夢」


 キノエは、せめてしょうこに泣いてほしかった。悲しみを表に出してほしかった。そうすれば、今この無力感に苛まされる自分も、相手に悔いがあれば、今後ずっとそれを共有して、引きずっていけるというのに。しかし、しょうこはそんなものをおくびにも出さず、すべて片づけて自分で持っていってしまいそうだった。


「この夢を、ずっと見ていたいがために、あの子を縛り続けていた。醒めるときがきたんです――だって、終わらないものはないのですから」


 そう、しょうこはもう彼女自身を終わらせている。あとに残るものはなに一つない。


 水面に浮かんでいた崩れた月がなくなり、光を返すものがなくなって、辺りの闇を引きたてる黒が少し増える。


「ありがとうございます。キノエさんのおかげで、ようやく逃げることができなくなりました」


 しょうこはキノエほうへ向き直り、困ったような苦笑のくせに、妙に晴ればれとした表情で頭を下げた。


「勝手なお願いですが――どうか、水緒をよろしくお願いいたします」


 待て――口にする前に、しょうこの姿は崩れた。


 そこにはもう、誰もおらず、灰色の土塊と服しかなかった。

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