泥人

 それからは、沼に行き、調べる生活が続いた。


 初日に調べたこと以外に、沼近隣の植生を調べたり、野生動物の痕跡を調べたりしたが、特に収穫はなかった。強いて言うならば、沼とは違い、動植物はみな一般的な大きさだったので、やはり沼だけが〈あおまし〉が濃いのだろうという点だ。


 森の散策には、必ずと言っていいほど水緒はついてくるようになっていた。特に誘わずとも、いつの間にか〈蜘蛛矢〉でどこからか飛んできて、同行するのだ。どうやら、キノエの話す知識に興味を持ったらしく、外での話だけでなく、森の生き物たちについて説明してやるだけで、いたく面白がっているようだった。生来の好奇心なのか、単に娯楽の少ない生活をしていたからかは判らないが、新しい知識に飢えているようにも見えた。


 楽しむ水緒の様子を見て、自分はこの少女を終わらせるために調査をしている、とキノエは重いものを感じていた。


 三日後、キノエは実験の結果を確認しに、冬虫夏草の死骸を置いた廃屋を訪れていた。その日は集落ムラの中にいたからか、水緒はやってこなかった。どうやら、集落ムラの中には興味がなく、森の中で遊んでいるらしい。


 日の当たる場所に置いた二つの器は、特に変わりなくあった。器を一つずつ板間に置き、腰を下ろして中身を確認しはじめる。


 水を注いだだけの二つの虫の死骸は、比べると一目で別物のようになっていた。


 一つは特に目立った変化はない。持参した水のほうだ。冬虫夏草が少し成長したのと、乾燥した死骸が湿って水の中で崩れ、細かな破片が浮いているくらいだ。


 大きく変化しているのは、沼の水のほうだった。


 一言で言えば、死骸が消えた。


 いや、消えたわけではない。。死骸から生えていた冬虫夏草が、死骸の全身を包むほど増えて、白い枝状の子実体が絡みあい、奇妙な骨格標本のようになっていた。あまつさえ死骸を侵略しただけでは飽きたらず、冬虫夏草は新たな版図の拡大を目指し、器の外へ向かうように、黒い子実体の柄を長く曲がりくねらせ、伸ばしはじめていた。


 実験の結果を見たキノエは顔色を変えず、納得するように目を細めるばかりだった。


 特に感想も持たずに、次の仕込みを行った場所へ行き、二つの器の中身を比較する。岩に生した苔もカビた木片も、同じような結果だった。ここまでくれば、もうほとんど結果は解りきっていたが、泥を与えた植物たちも確認した。ドクダミもオオバコもヤブガラシも、どれも確かに成長していたが、揃いの株の草丈は同じ高さにあった。


 もう疑いようはない。沼の水が原因だ。


 天秤イチョウから流れだした水が沼に溜まり、そこに溶けこんでいた〈あおまし〉が〈灰泥へどろ〉化したのだろう。


〈灰泥〉は〈あおまし〉が自己組織化し、という、最も単純な〈生体通貨〉の代謝能力を獲得したものだ。生きるための過程として熱を持つのではなく、という、生命の原理を模した醜悪な浪費だ。


 沼の中で〈あおまし〉が寄り集まって〈灰泥〉化したのならば、沼の水そのものが〈灰泥〉の群体となっていると見るべきだろう。多細胞体制のような水の中に死体が取りこまれ、〈泥人ひじと〉が起こった。それはある種の化学反応だろう。


 あの沼は巨大な胞衣えなだ。


 原初の海で、非生物的な有機物が泡や滴に集まり、その『小さな部屋』の中で化学反応を起こして細胞となったように、沼という胎の中で死体と〈灰泥〉が化学反応を起こし、〈泥人〉を育む胞衣となったのだろう。細胞の中で〈生体通貨〉の産生を行う糸粒体が、元々は独立した細菌であったものが、細胞に取りこまれて共生関係を獲得したのに似ている。死体を呑みこんだ沼の〈灰泥〉は、その死体に由来する〝血〟を持つになって、やがて〈灰泥〉の群体から切り離された個体――〈泥人〉となった。


 しかし、ここでも解らないのは、なぜ沼の他の生物の死体には反応しない――人間の死体でないといけないのか、という点だ。それだけが未だに解らない。


 ただ、死体が基になったのであれば、〈泥人〉には人間のは残っているはずだ。水緒の体が〈あおまし〉に由来するものだけで構成されているとは、とても考えられない。言うなれば、〈灰泥〉と死体が相補している状態だ。ならば、〈灰泥〉を取り除くことができれば、〈泥人〉は普通の人間と変わらないものになるのではないだろうか? 体の構造がどうなっているかは解らないが、たとえば他の人間から内臓を移殖していけば、あるいは単純に輸血でもして、とにかく普通の人間の要素を足していけば、やがて〈灰泥〉の影響がなくなる可能性があるのではないだろうか?


 キノエの頭の中では、馬鹿馬鹿しい夢想が描かれていた。泥で継ぎ接ぎされた動く死体に、生きた人間の部品を与えていく。やがて泥と死体はなくなり、動く死体だったものの人格を引き継いだ、新たな人間が生まれるのだ。


 ――そのとき、その『人間』は誰だ?


 思考の底から疑問が不気味な泡のように浮きあがり、破裂した。眼窩の奥の頭の真ん中に、なにか重いものが伸しかかってくる。それは人間と〈泥人〉か? それとも〈泥人〉人間か? もしくは死ぬ前の赤子か? そもそも『生命』を持たない〈怪もの〉が人間になるのか? そこにいるのは、人間的であることが全肯定された、人間ではない存在だ。それが成立するならば、生命の意味は敷衍される。があるならば、と認めていいことになる。そこに柔らかだが堅固な拒否感を抱いてしまうのはなぜなのか。


 キノエは大きく息を吸った。自分の思索を断ち切った。これ以上は今考えるべきことではない。大体、水緒の体を他の人間と置換していくなど、現実的ではないのだ。


 愚考を吹いて飛ばそうと、深く吸った息を宙に向けて吐きだす。仰いだ空を見ると、いつの間にか夕暮れ時が近づいていた。


 空が茜色になり、焼けた空を映した田んぼの水鏡に、森の枝葉が影を描きはじめていた。夕暮れの鏡には藤色が滲みだし、日の落ちる具合を伝えてくる。ぼんやりと景色を眺めていたが、段々と薄かった紫が桔梗の花ほどに濃くなってきたのを見て、慌てて足を帰路に向けた。明かりのない畦道など、どう足を踏み外して用水路に落ちるか判ったものではない。


 空の色合いが紺碧になりかけたころには、しょうこたちの家が見えてきて、ほっと一息を吐いた。縁側の辺りは暖かい色をしており、火を使っているらしい。〈泥人〉により異常に育った植物のせいで、よく見えない。本来は生垣だったのだろう、絡みあう低木の細い枝が、まるで粗雑に編まれた籐細工の壁のようだ。仄明るい程度にしか見えないが、それでも火を使っている光景は、ひどく心が安らぐ。灯火はそれだけで文明を示し、森の中であろうと人の領域を作りだしてくれる。


「ただいま」

「お帰りなさい」


 玄関を通ると、居間からしょうこが応えてくれた。普段は一人で暮らしているので、返る声があるというのは、むず痒いものがあった。すでに水緒は帰ってきていて、板間に座るしょうこの膝を枕に、こちらに背を向けて寝転んでいる。眠ってはいないようで、「おかえり」とくぐもった声が、あとからした。


「なにか食べますか? その、お魚しかありませんが……」

「ありがとう、いただくよ」


 キノエが囲炉裏の前に腰を落とすと、しょうこは水緒を促して膝からどかす。そのまま土間のほうに向かうと、奥から彼女は言った。


「何匹焼きましょうか」


 少し自分の腹と相談してからキノエは答えた。


「二匹もらおうかな」


 初日はなんとか五匹を平らげたが、《シカロ》の肥えた魚を相手に、もう一度勝てる気がしない。


 対面に座っていた水緒が言う。


「前より少ない。体調、悪いの?」

「これが普通なんだよ」


 苦笑しながら答えると、水緒は不思議そうにお椀に入った水を啜った。


「水緒としょうこさんは、食事は?」

「キノエが帰る前に済ませた」

「だいぶ早いな……」

「キノエが遅すぎるんじゃないの? お魚、食べるの時間かかるし」

「それもそうか」


 水緒と話していると、下処理を終えた魚を串に刺したしょうこが、土間から戻ってきた。


 しょうこは串魚を二匹、囲炉裏に立てる。魚の皮目に熱が通りはじめ、しゅうしゅうと小さく音を立てる。うっすらと焼き目がつくにつれて水気も抜けていき、皮がぱりりとした見た目になっていった。


 身に残っていた水分が、たまに魚の口からぽたりと落ちるぐらいになると、串を裏返しながら、しょうこが言う。


「〈怪もの〉の調査は、どうですか……」


 その言葉にキノエは驚く。まさか、水緒の前で〈泥人〉についての話題が振られるとは思っていなかった。それとなく調査の進捗について訊かれているのか、単に世間話のつもりなのか、返す言葉に悩んでいると、水緒が言った。


「わたしも手伝ってるよ」

「迷惑はかけていないでしょうね」

「沼にも案内したし、キノエの荷物運んだりしてる。ね?」

「あぁ、まぁ……思った以上に道の悪い場所もあるし、助かってるよ。ただ〈怪もの〉については、まだ、ね……」


 虚実半々という回答で、キノエは言葉を濁した。


 原因については、沼だと確信した。〈泥人〉の起こる機序にも当たりはついたし、それを考えると新たな〈泥人〉が現れる心配もない。しかし、だとしても〈泥人〉の目的は、相変わらず解らないままなのだ。


 すべての〈怪もの〉には目的がある。目的と言っても、明確な指向性を持って発生したわけではなく、種々の条件が与えられた結果だ。川の水は海に帰りたがっているわけではないし、植物は緑色が好きなわけでもない。人間の作る道具のように、用途はあれど、そのもの自体にはなんの意思も存在しない。あるとすれば、初めに〈あおまし〉が作られた目的である『〈生体通貨〉を集める』という一点にのみ、起点が存在する。


 しかし、それすらも今では意味を失っている。ありとあらゆる意味を失った事物に、目標は具わらない。そういう意味では、生命自体にも目的はない。『生きる』ことを突きつめていけば、最後にはなにも残らないからだ。悲観的に考えれば、生命に溢れる森と死が隣りあわせの氷原に、本質的に差はない。


 ただ、があるか、ないか、というだけの話だ。


 だがこの思索には意味がない。少なくとも、生きているものは、その間は『生きたい』という意志を持つからだ。だからそこに、妙な小理屈を捏ねた崇高な死生観の先にある、形而上的な目標を掲げても、結局は単純明快な『生きたい』に負けるのだ。


 そう、『生命』ならば。


 しかし〈あおまし〉は異なる。始まりからして、消費される道具だからだ。それらを擬人化するのであれば、『死にたい』に行きつく。そしてそれらが複雑に発展した〈怪もの〉も、個々の形態が異なるだけで終わりを求めているのだ。そう、雲に死があるのならば、雨は自らの終わりへの随喜の涙と呼べるように。


 キノエは、ちらと水緒の姿を見る。


〈泥人〉の求める終わりはなんだろう。


 そもそもなぜ集落ムラに現れるのか? 富栄養な沼から現れた点を考えれば、そこに溜まったものを消費するのが、〈怪もの〉の通例だ。しかし、それにしては、まったく消費できていそうにない。近隣の森は豊かさを享受し続けている。〈生体通貨〉を消費するのが〈怪もの〉の大原則だ。〈泥人〉――人間としての代謝、殊更に幼い少女の体だけでは、沼の栄養はいつまで経っても尽きないだろう。


 集落ムラに人間として現れた。そこに意味があるのは間違いない。なにかしらの作用を手段に、〈生体通貨〉を消費するという目的を果たそうとする、集落ムラにしか現れない〈怪もの〉の正体は、求める終わりかたは、一体どんな形をしているのだろう。


 そう言えば、と思いだしたように水緒が口を開いた。


「お母さん、沼の魚、また増えてた」

「あら。じゃあ、また罠を張らないと……そろそろ、生簀もいっぱいになってきたし、どうしようかしら……」

「食べきれないよね、人がいっぱいいたら、すぐになくなるのに」


 水緒の言葉に、キノエは目を瞠る。


 かちりと、なにかが嵌った音がしたような気がした。


「……なんて言った?」

「え? ……食べきれない?」

「違う。そのあと」

「人がいっぱいいたら、すぐなくなる?」

「それだ……」


 集落ムラの特徴は、一も二もなく人間が多いことだ。一つ所に留まって営巣する生物は数多くいるが、持続的な消費活動において人間の右に出る生物はいない。あまつさえ環境を大きく作り変え、資源を大量に使用し、領域を拡大していく、社会性動物の頂点だ。


 今までの記録で、〈泥人〉自体の観察で答えが出なかったのも無理はない。〈泥人〉はその目的を達するために、自らはなにも行動していないのだ。


 集落ムラに現れた時点で、〈泥人〉は目的の大部分を果たしている。自らが存在するだけで、周囲の環境は自然と豊かになっていく。そうすれば、あとは勝手に人間が殖えて肥えて、〈あおまし〉を浪費してくれる。〈泥人〉は、現象の一部でしかなかったのだ。本体は別にいる。表面上はなにもしていないように見える、〈泥人〉の胎となる〈灰泥〉の吹き溜まり――〈胞衣えな〉とでも呼ぶべきものが。


〈胞衣〉は〈泥人〉という端末を介して、ヒトの動きを誘導しているのだ。豊かになったヒトが必ず行う行為――消費と開拓を促進することで、


 まるで細胞の自死機構だ。それなら森を対象とする〈ヌシ〉と違うのも当然だ。そもそも〈生体通貨〉を消費するために利用する機構そのものが違う。森を元に戻すための回収装置として〈あおまし〉を使用するのが〈ヌシ〉とすれば、過栄養な〈あおまし〉を使用する消費装置が〈泥人〉だ。


 だとしたら、〈祓い〉は簡単だ。


「ありがとう、水緒。ここの〈怪もの祓い〉のやりかたが解った」


 よく解っていない風の水緒は、首を傾げながら「どういたしまして?」と不思議そうにしていた。


「どう、やるんでしょう?」


 しょうこに問われ、思索に没頭するあまり、キノエは思ったことをそのまま口にした。


「沼の水を抜けばいい」



 夕餉を終えたあと、腹ごなしの散歩と言って、囲炉裏の火を行灯にもらい、キノエは外に出ていた。一つの謎が解けて、少し興奮気味だった頭を冷やすために夜風に当たりたいというのもあったが、自分の食べたものを毎回しょうこに捨てにいってもらうのが、後ろめたかったからだ。


 元々、稲作をしていたからか、堆肥を作るための肥溜めがあり、厨芥はそこに捨てているとのことだった。


 肥溜めは家から少し歩いた、畦道の脇に設けられていた。木造りの簡素な屋根つきの囲いに、地面に穴を掘った浅い井戸に似ている。かつては集落ムラの共有資産として管理されていたのだろう。思えば、似たような穴をいくつか見かけた気がする。


 意外にも肥溜めはあまり臭わなかった。すでに堆肥を作る目的はないからか、定期的に中身をさらって捨てているのかもしれない。


 気持ちのいいものではなかったが、足を踏み外して落ちてしまわないように、行灯でしっかりと肥溜めを照らしだす。穴の中身はほとんどなく、数匹分の魚の骨が白く目立って見えた。しかし、ものの見事に魚の厨芥しかない。もう少し山菜の切れ端やらがあると思ったが、考えてみればキノエもここ数日はほとんど魚しか口にしていなかった。


「……干し肉でもあげるか」


 ごちそうになってばかりな上、散策の合間に自分だけたまに肉を食べているのが、なんだか悪い気がしてきた。そんなに量は残っていないが、泊めてもらっているせめてもの礼ぐらいはしたい。持ってきた魚の骨を肥溜めに放りいれると、魚ばかり食べている母娘が、肉を嫌いでないといいのだが、と思案しながらキノエはまっすぐに家へと戻った。


「ただいま」

「おかえり」


 返ってきた声は一つだけだった。居間には水緒の姿しかない。その水緒も、こちらに背を向けて、がさごそとなにやらしている。〈蜘蛛矢〉の部品を並べて、雑嚢に詰めているようだった。手入れでもしているらしい。


「しょうこさんは?」

「出かけた」


 水緒は短く答えた。


「沼のほうに行ってるみたい。魚が増えてる話をしたから、の仕事かも」

「こんな夜にか……」


 暗いうちに罠でも仕掛けに行ったのだろうか。食事情のことなので、干し肉の件については、しょうこに直接尋ねたいところだった。キノエは少し考え、好き嫌いぐらいなら水緒に訊いてもいいだろう、と訊いた。


「ところで、水緒は肉は食べる?」


 水緒は作業の手を止めて、こちらに振り向く。突然の質問に、要領を得ていない顔だった。


「お肉? 食べるよ、めったに食べないけど。前に食べたのは、三年ぐらい前」

「いや、魚しか食べてないみたいだし、私の持ってる干し肉をいらないかなって」


 水緒は「んー」と小さく唸ると、話題に興味を失ったように、再び雑嚢に荷物を詰めはじめた。


「別にいらない。キノエはすごく食べるから、食料ないと困るでしょ」

「私はそんなに大食漢ではないぞ……」

「でも、毎日お魚食べてる。今日も二匹も」

「それはそうだけど……」


 確かに子供から見れば、大人の食事量は多く見えるかもしれない。しかし、キノエは健啖家ではないし、なんなら育ち盛りの子供のほうがよく食べるだろう。そういう意味では、一日中森の中で遊びまわっている水緒のほうが、食べる量が少なすぎるきらいがある。


 そこで、ふとキノエは気づいた。


 そう言えば、水緒がものを食べている姿を見たことがない。赤血球の少ない血のこともある。周囲の〈あおまし〉から得られる〈生体通貨〉があるので、常人よりもはるかに摂取する必要のある栄養量が少ないのかもしれない。強いて食事の様子として挙げるなら、せいぜい水を飲んでいたことだろうか。だが、それも沼の水なので〈あおまし〉が多く含まれている。


 ぽたりと、心の底に違和感の雫が落ちた。


 直感が、どこかに水をやろうとしている。不安の種が、意識のどこかに埋まっているのだ。なにかが無意識に根を張っているのに、芽を出さない感覚がある。植えた覚えのない花を育てようとする夢の中にいる気分だった。未視感にも似た、はっきりと見たものを意識できていない気持ち悪さがある。


〈蜘蛛矢〉の鏃を眺めながら水緒が言った。


「わたしもお母さんも、そんなに食べないし、あってもダメにしちゃう。だからいいよ」


 その一言で、不安は萌芽した。


 気づきが形を得る。頭の中で、今まで相関のなかった断片がくるりと回り、新たな断面を見せて、一気にそれらが噛みあっていく。血の気が引いていくのを感じた。なのに、身体は熱い。脳に不安をぶちまけられ、自律神経が狂っていた。


 自然と調子が低くなった声で、キノエは訊いた。


「水緒、普段はどのくらい食事をする……」

「三日に一度かな。あとは水を飲むぐらい」

「……しょうこさんは」


 と同時に、確信のある問いだった。


「えっと」


 水緒は言った。


「十日に一度くらい」


 どっと汗が噴きでる。全身で心臓の鼓動を感じて、体が揺れているようだった。あるいは本当に鼓動が異様に早くなっている。


 声が震えそうになるのを抑えて、水緒に訊く。


「そう言えば、さっきからそれはなにをしてるんだ……」


 え、と水緒は不思議そうな声を上げた。


「〈怪もの〉の調査が終わったから、明日、キノエの集落ムラに連れて行ってくれるんでしょ? お母さんが言ってたよ」

「あぁ、そうだった、ね……」


 言葉を濁しながら答えると、キノエは水緒に背を向けた。これ以上は、平静を保った顔を取り繕えそうになかった。


「ごめん、水緒、もう一回外に出てくる。落とし物をしたかも」

「外暗いよ。手伝う?」

「いや、大したものじゃない。見つからなかったら戻ってくるよ。水緒は、先に寝てな」

「そう? わかった、お休みなさい」

「あぁ、お休み」


 そのあと、家を出ると、キノエは行灯を持ってすぐさま沼へと向かいはじめた。足が痛むのにも構わず、可能な限り足を速く動かす。痛みよりも、自分の失態を責める気持ちのほうが強かった。手遅れになる前に、なんとしてでも沼に辿りつかなくてはならない。


 キノエは勘違いをしていた。大きな勘違いだ。


 なぜ気づかなかったのか。怪しい点はそこら中にあった。


 水緒は〈泥人〉ではない。〈泥人〉はしょうこだ。

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