姥捨山
安芸智海
第1話 不幸な女
私はいつも、不幸な女だった。十代のころはいじめられて、大学受験には失敗し、付き合った彼氏には騙されて、会社ではパワハラやセクハラを受けた。二十代も半ばだというのに、いいことなんて一つもなかったのだ。だけど、ネットで知り合った、この人は違った。こんな私に優しくしてくれる、笑顔を向けてくれる。それだけで、私は満足だった。
そして、今、私は彼と山を登っている。その山は私の実家の近くにある、標高1000mほどの山だ。言い伝えによれば、山頂には神様が住んでいて、迷える人を導いてくれるそうだ。私はバカだから、小さいころから、それを信じていた。そうして、山を登るたびに、私は不幸をそこに捨ててきた。だから、私は彼とこの山を登り、その神様に導いてもらおうと思ったのだ。
「おい、まだ時間がかかるのか」
彼は息を荒げながら、私の背中に向かって声をかけた。私よりも年上だから、つらいのだろう。
「もう少しよ。がんばって」
私は彼に声をかけながら、一歩一歩、足を進める。辺りは濃霧で太陽がすっぽり隠れているから、とても薄暗い。彼は最初、登るのを嫌がった。でも、私は「これが最後だから」と、彼を説得して、山を登らせたのだ。
こんな天気だと、ほかに登山客は誰もいない。私と、彼との荒い息遣いだけが、山道へと消えていく。まるで、彼とベッドの上で遊んでいるみたい。私は、昨夜、彼と一夜を過ごしたときの、彼の体の味や匂いを思い出し、思わず唾を飲みこんだ。
それから、数十分後、私たちは無事に、山頂にたどり着いた。頂上は岩ばかりがゴロゴロと転がっていて、周囲は切り立った崖になっている。落ちれば命はない。
「おい、気をつけろよ」
崖下を覗き込もうとする私を、彼は注意をした。私も素直に聞いて、その場から離れた。なぜなら、崖は真っ白い霧の海だったので、何にも見えなかったからだ。
私たちはさらに奥に進み、神様が祀られている、小さな社の前まで行った。私は、柏手を打つと、神様に願い事をした。しかし、顔を上げると、彼は険しい顔でこちらを見つめている。
「悪いことをしたと思っている」
彼は、後ろめたそうに、そう声を漏らした。
「いいのよ、別に」
「いや、良くない。まさか、君が妊娠してしまうなんて思ってもみなかった。ちゃんとゴムは着けてたのに。いや、言い訳はよそう。子供のことは本当にすまなかった」
私は、無意識にお腹をさすった。そこにいたはずの、命の暖かさを感じたかった。でも、もうそこは虚しい空洞だ。でも、私は彼を恨んでなんかいない。なぜなら、今までの人は、私に謝罪なんてしなかった。私のことを、弱者だと見下していた。それに引き換え、彼は本当に優しい。
「そんなに、申し訳ないと思うなら、私と一緒に…」
「それはできないと言ってるだろう。まだ君との関係は、妻にも、誰にも知られていない。証拠だって残してないさ。今日、君と一緒に過ごすことだって誰も知らない。でも、関係を続けていけば必ずバレる。その時は、僕だけじゃなく君も大変なことになる。だから、最後だと君も、そう約束じゃないか」
私は、思わず吹き出してしまった。彼が必死でしゃべれば、しゃべるだけ、私の心は軽くなっていく。しかし、彼は、私の気持ちが理解できないのか、イライラしている。
「何がおかしいんだ。僕は真剣なんだ」
「わかってる。わかってるわ。今のは冗談よ。もっと余裕をもって。せっかく山頂まで来たんだから。約束はキチンと守るわ」
彼はようやく安心したのか、ホッと小さくため息をついた。
「じゃあ、そろそろ降りましょうか。この霧じゃあ、何にも見えないし」
「そうだな、暗くなる前にさっさと降りよう」
彼はそう言うと、私に背を向けて、歩き出した。私は、黙ってその後に続く。だけど、すぐに、私は彼に声をかけた。
「ねぇ、聞いて。あなたは謝る必要なんてないのよ」
彼は、振り返ると、眉間にしわを寄せた。
「どうして」
「だって、私がゴムに穴をあけたの」
「どうして、そんな、ことを」
「だって、あなたのような優しい子供が、欲しかったから」
彼は、まさかの告白に動揺していた。私から目をそらして、うつむいてしまった。
私はその一瞬を、見逃さなかった。
全身の体重を乗せて、彼を勢いよく、突き飛ばした。
彼は、まさかの出来事に対応できずに、バランスを崩した。
私は、もう一度、彼の体を力いっぱい、突き飛ばした。
彼は、重力にとらえられて、真っ逆さまに滑落した。
「アアッ」
そう、小さくつぶやいたのが、彼の最後の声だった。すぐに彼の体は、霧の海に見えなくなる。岩肌を転がり落ちる音だけが、山頂に響いていたが、それもしばらくすると止んだ。この崖下は、深い樹海となっており、遭難の捜索がない限り、誰も立ち寄らない。私をいじめたアイツも、金をだまし取った彼も、あのパワハラセクハラ上司も、みんなこの下にいる。この山は、私の不幸を飲み込んで、そうして幸せへと導いてくれるのだ。
「ありがとう、カミサマ。これで彼は私のモノ」
私はもう一度、社の方に向かって柏手を打った。すると、さっと強い日差しが、山頂に差し込んできた。私がハッと、その方を見ると、さっきまで見えなかった太陽が、顔をのぞかせていた。そして、その光は、私の体を、山頂を、崖を照らしていく。それと、同時に霧が一斉に晴れていき、これまで見えなかった、青空や山の景色が生き生きと浮かび上がってくる。霧はなおも遠ざかり、眼下には樹海が、その先の私の故郷が、水平線まで広がっていく。そうして、すべての視界は開け、後にはすがすがしい風が、私の体に吹き付けていた。
私は、その景色を見ながら涙を流した。これでいいと、カミサマが言っているように思えた。そうして、手を合わせると、私は元気よく山を降り始めた。やらねばならないことがたくさんあるからだ。まだ、私の部屋には彼の精液が残っている。それを使って、私は子供を作るのだ。彼のような優しい子供を。
「待っててね。きっと幸せにするから」
人気のない山を駆けながら、私は小さくつぶやいた。私はもう、不幸ではなかった。
姥捨山 安芸智海 @akinomori
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