四角桜 後編

 崖を歩いていた。すぐ目の前に広がるのは底の見えない奈落で、一歩間違えばその先にあるのは『死』しかない。強風に煽られ、足元がぐらつきバランスを崩す。刹那、瞬き一つで世界が変わる。先程まで奈落だったものが、草木生い茂る草原に変わっていた。

 そこで漸く、これが夢なのだと気がつく。しかし、夢だと認識したとて、安易に覚醒へと繋がる訳ではない。足に纏わりつく雑草やら何やらで思うように前に進めず、焦る感情の昂りに比例して茹だるような倦怠感が一気に襲いかかってくる。


 ————遅いよ。早く着いて来て。


 頭では分かっている。けど、体が言うことを聞かないんだ。


 ————まだ?早くしないと置いていくよー?


 だから、僕もそっちに行きたいのに、行けないんだよ。


 ————そっか。君は来れないもんね。こっちには。


 待ってよ。置いて行かないでよ。


 ————じゃあね。


 何で、何で僕の足は動かないんだよ。待って、待ってよ。






 ————バイバイ、ヨツ君。






 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 弾かれたように瞼を開くと、見知った天井が視界に映っていた。上半身を起こし、荒い呼吸を整えようとする。


「夢、か......」


 直前まで見ていたはずの夢を思い出せず、まるで霧を掴むような感覚に妙な気持ち悪さを感じる。どうにかして気分を変えようと起き上がり、洗面台に向かう。部屋は僕が寝ていたリビングの他にもう一つあるが、扉で仕切られていないので実質一部屋と言っても良いだろう。そんなもう一つの部屋に視線を向けると、毛布にくるまって熟睡する二人の女性が居た。一人は壊滅的な寝相の持ち主、涼波那菜。もう一人は比較的寝相の良い少女、葉山輪廻だ。


 勘違いをさせないために一応説明しておこう。

 ———昨日の秋葉原からの帰り、電車内で寝てしまった輪廻を起こそうとしたが、輪廻はどうしても起きなかった。仕方ないから輪廻を背中に背負って改札まで行き、駅員さんに事情を説明して切符を通すことで切り抜けたのだが、ここで問題が発生する。僕と那菜は特に何も考えずに、僕の家の最寄駅で降車したが、輪廻の家からこの最寄駅は相当な距離があるのだ。そもそも、輪廻とは住んでいる区域が違い、ここから輪廻の家に向かうとすれば再び電車の利用をしなければいけなくなる。


 だが、輪廻を背負ったまま再び電車に乗り、輪廻の家に彼女を届けて帰ってくるなんて事ができる体力はもう残っていなかった。だから仕方なく、僕の家に泊まらせることにしたのだ。那菜にも泊まってもらうようにしたのは、仮にも男女が同じ屋根の下で一晩明かすため、誰かに居てもらったほうが輪廻が起きた時に安心できるだろう、と言う配慮があってのことだった。


 ———というか、あれだけ起こそうとしたのに起きない輪廻もすごいよな。


 なんてことを考えながら、洗面台の前まで来る。蛇口を捻り、流水を手で組み顔に浴びせる。想定よりかなり冷たい水温に少し驚きながらも、今度は蛇口を反対方向に捻り流水を止め、すぐ近くに用意してあったタオルで顔を拭き、「よし」と声が漏れた。



 ———そうして、僕の一日が始まりを告げた。





 現在時刻は午前六時ちょうど。まだ寝ている二人を起こすには少し早い時間だ。その間、僕がやることと言えば———。


「朝ごはん作るか」


 そう、実は僕の数少ない特技の一つが料理....というより、家事全般である。一人暮らしをする僕のために母さんがありったけの技を叩き込んでくれたため、今では母さんと同量の技を持つまでに成長している。母さんありがとう....。


 ———とりあえず、冷蔵庫を開け、今ある材料を確認する。


「ん、何とかいけるな」


 冷蔵庫からいくつかの材料を取り出し、閉める。味噌、豆腐、事前に小さく切って冷凍していた厚揚げ....これで味噌汁を作り、あとは卵焼きと漬物。そのあと適当に林檎でも出しておけばいいかな。


 脳内で材料を組み合わせ、瞬時にメニューを考案すると、手早く作業に移り出した。


 家にある鍋の中でも割と小さめの、赤い塗装の鍋に水を張り、火にかける。沸騰するのを待っている間に豆腐を適当なサイズに切り、ついでに卵を三つほど割ってボウルに入れ、白出汁、塩と味の素、ほんの少しの醤油で味付けしてかき混ぜておく。そうこうしている間にお湯が沸いたようで、顆粒出汁を入れた後に麹味噌、豆腐、冷凍の厚揚げを入れて少し煮詰める。


「あ、そうだ。あれ入れとこ」


 ふと思い出して、冷凍庫からこれまた冷凍保存していた小刻みネギを取り出し、味噌汁に入れる。


「こんくらいかな」


 残るは卵焼きのみ。卵焼きは比較的簡単な料理で、それでいてとても美味しいので、料理初心者にはおすすめの一品でもある。———卵焼き専用の四角いフライパンに火をかけ、サラダ油を入れ、キッチンペーパーで均一に広げる。パチパチ、と少し音がしたら、ボウルに移して味付けしておいた卵液を三分の一くらい入れる。フライパン全体に卵液が広がったら、薄い膜になるのを待ち、くるくると巻くようにしてひっくり返す。そして再び卵液を今度は半分ほど入れ、再び同じ作業をする。それを後二回ほど繰り返せば完成だ。


 布団やらを一瞬で片付けると、平皿に卵焼きを、木のお椀に味噌汁を、茶碗に白米を盛り付け、リビングの机に並べる。漬物は小皿に取り分け、ちょうど家にあった....と言うか家には三膳しかない箸を箸置きと共に食卓に並べ、これで用意は完璧だ。


 ふとスマホの画面を見れば、時刻は午前六時三十分を過ぎた頃だった。起こすにはちょうど良い時間帯だろう。そう思い二人の寝ている部屋に向かうと、あり得ないほどおかしな体勢で寝ている那菜と、それに巻き込まれる形で苦しそうに寝ている輪廻の姿があった。


「....。って、呆れてる場合じゃなかった。輪廻助けないと!」


 あまりにおかしな、いやここまでくると最早芸術の域にある那菜の寝相に一瞬呆けていたが、ここで本来の目的を思い出し、二人を起こすことに。


「おーい、起きてー。朝ご飯できたから、早く起きなよー」


 ひとまず那奈の頬をペチペチと叩きながら起こすと、案外早く目を覚ました那菜は、食卓の良い匂いを嗅ぎ取ったのか勢いよく起き上がり、駆け足で洗面台の方へ向かっていった。


「———輪廻、起きて」


 トントン、と肩を軽く叩いてみる。瞼がかすかに動いた。もう一押し、と肩を揺さぶってみると、「....ん」と微かに言葉を漏らし、輪廻は寝ぼけた様子で起き上がった。


「おはよ、輪廻」


「おはよぉ......。んん....?あれぇ、なんで桜が....?というか、ここ、桜の家....?」


「あぁ、まぁ話は後でするから、とりあえず顔洗ってきなよ」


「....わかったぁ」


 そう言って輪廻も洗面台に向かって行った。あとは二人の用意が終わるのを待つだけだな。


「ヨツ君!これめっちゃおいしそー!」


 いつの間にか那菜は朝食の並ぶ机の前に座っており、硝子や結晶石を連想させるような美しい瞳をキラキラと輝かせ、今にも白米を頬張りそうな、そんな勢いを醸し出していた。


「輪廻が来るまで待ちなよ。....あ、来たよ」


「お待たせ。....桜、大体の状況は何となく理解できたから、今のうちに謝っておく。迷惑かけてごめんね」


 シャッキリとした顔つきで、やや気まずそうにしながらも素直に謝る輪廻。


「良いって良いって。別に、僕と那菜が決めたことだから。輪廻が嫌じゃなかったらそれで良いよ」


 僕がそう返すと、輪廻は微かに頬を紅潮させ、目を伏せながら「ありがと」と呟いた。


「———ご飯食べよっか」


 そう切り出し、僕と輪廻も腰をおろす。今か今かと待ち望んでいる那菜に苦笑しながら手を合わせ、一言。




「「「いただきます!」」」




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