第48話

 僕は自分の体を抱きしめ温めながら空を見上げた。霧だらけでもう星の一つも見えはしない。僕は森の中でゆらゆらと揺れる火を見る。

「ゾンビに襲われたら終わりだね」

 命というものは案外あっさりとしたものらしい。つばめは死んで……天使もきっと死んだ……百合園はもう死んでいる。涙が地面に溢れた。きっと有りもしない幸福を望んだからバチが当たったのだ。僕は水たまりの泥水を啜った。ジャリジャリとした感覚と強烈な苦味。たまらず口から吐き出す。唯愛に締められた感覚が残る首をさすった。

 日が昇る。僕は脱力感と僅かな熱っぽさを感じながら。ただゆっくりと全てを忘れるために歩き続けた。ゾンビを視界の端に捉えるたびに体が震えた。銃を何かもあの村に置いてきてしまった。助けてくれる英雄は僕の中にはもう居ない。死んでしまったのだ。あまりにも愚かで嘲笑えてしまった。

 日が落ちて夜が来る。今日は雨だった。体が冷えて体が震える。昨日より熱が酷い。まるでずっと聞いてきたウイルスの感染症状みたいだ。けど今までずっと走ってきた身の毛もよだつような悪寒に比べると耐えられものだ。いつも通り僕の心情など無視して日は昇る。僕は疲れ果て歪んだ視界で光ある街を見る。

「やっと……着いた」

 僕は白い息を吐く。あの日から三日経った、寒さは酷くなるばかりだ。僕はふらふらとした足取りで門に辿り着く。

「仲間はどうした?」

 門番の厳つい男はこちらを睨みつける。僕はただ首を振った。僕のやつれた顔に何かを察したのか、男は無言で街に僕を入れてくれた。ありがたい限りだ。僕は急いで市役所に向かう。足が痛むことなどお構いなしに走る。自動ドアが開くまでの時間がもどかしい。

「蛇川さんを呼んで……ください!」

「なっなんですか急に!」

 受付の女性はびくりと体を震わす。

「楽園に行きました。ゾンビが生きてて――唯愛が、唯愛が」

 僕は矢継ぎ早に喋る。

「お、落ち着いてください。顔酷いですよ」

 エレベータが開く音が聞こえた。スーツの男たちに囲まれ蛇皮がちらりとこちらを見る。

「蛇皮さんッ! 大変なんです。唯愛が――唯愛は虚飾です! 烏の八咫烏のボスで、みんなを殺して」

 僕が蛇皮に近づこうとすると周囲の黒服たちが前に出てくる。僕は拘束を振りほどこうと藻掻く。蛇皮は感情のない顔で僕を見つめる。

「楽園はあったか?」

「あんなの……あんなの楽園な訳ないじゃないですが! ゾンビが、腐った死体が人間みたいに生きて――あんなのただの化物でしょ!」

 僕は蛇皮に叫ぶ。蛇皮は顎に手を当てて考え込む。

「唯愛を……虚飾をなんとかしないと。ここだってすぐに滅ぼされます。烏は、本当に恐ろしい奴らで、誰にだって容赦しない」

「知っている。そんなことは。あの少女が虚飾か……捕まえろ!」

「は?」

 黒服の男が僕の腕を取り押さえ頭を地面に押し付ける。蛇皮は倒れた僕を見下ろす。

「何でですか! こんなことしても虚飾は――楽園は!」

「嗚呼。もう、それは良い。問題ない。全部問題ないんだ」

「どういう――がはっ!」

 僕は突然、頭を拳で殴られる。血が白い床に飛び散る。黒服の厳つい男がもう一度僕の頭部を殴打した。意識が薄れる。蛇皮の顔が少しやつれているような気がした。




 呆然と壁目から零れる雨粒を見ていた。仰向けになっていた僕の顔に水がぽたりと落ちる。周りには一度入ったことのある空間。きしんだベッドに、清掃のされていない便器。カビたパンさえ今回はくれはしない。仲間に裏切れて、自分が救った都市に裏切られて――本当に僕……何してきたんだよ。熱はあの日から酷くなるばかり。唯愛の言った十日後に良くなるとは期待できない。ただひたすらに腹が立った。僕が何したって言うんだよ。苛立って鉄格子を拳で強く殴る。皮膚が裂けて血が滲んだ。

「うるせ」

 誰かのボソリとした声が聞こえた。僕は耳を澄ませ位置を割り出す。

「誰?」

「そりゃこっちのセリフだ。新人か?」

「前に入ったことある」

「あっそ、おりゃ二年、いや三年か。たぶん先輩だな」

 ケラケラと不快な笑い声が壁の向こうから聞こえてくる。僕は喋るのをやめた。時間が過ぎて、空腹が募ってくる。水は幸いにも手に入るが、そう長くは生きられないだろう。

「なぁ、飯食ったか?」

「ないよ。来ないと思う」

「だな。知ってか、外はもう最高らしいぜ。何でも人殺しが偉業の一つになっちまったらしい。人間ぶち殺すとこの忌々しいゾンビウイルス君に抗体ができるってよ。なっわけ」

「それ本当だよ」

「お前もそ――マジか? 抗体できんの? お前、頭いかれてねぇよな?」

「イカれてたほうが幸せだよ」

 そしたら現実を見なくて済むから。

「唯愛――僕の友人がそんなこと言ってた。烏のボス」

「ひゅー、天下の八咫烏のボスのお言葉か。現人神とか言われてる奴の言葉なら少しは信頼できそうだ。まっ、美学に反するからやらねぇけど。人ぶち殺すのは目的がないから美しいんだ」

 男はよく分からない哲学を語る。会話は途切れた。僕は石の欠片で少しだけ鉄格子の接続部分を削った。


「なぁ、俺たち死ぬな」

 あれから三日経った。唯愛との約束の日まで残り、四日。無性に苛立つ。息切れした声で男は言う。百足景久という殺人鬼らしい。自分で自慢気に殺した人間の名前と表情を語っていた。気が合いそうにない。今日も少しだけ石の欠片で鉄格子の一部を削る。強い力があればこの棒の部分だけは吹き飛びそうだ。

「最初から分かってたでしょ」

「そりゃそうだが、死ぬってのは面倒だな。俺まだやりたいことあるのに」

「殺人鬼は死んで当然だと思うけど」

「違いねぇ。だがそれでも死にたくないのが殺人鬼なんだよ――てっわけで俺は勝手に脱獄するぜ」

「誰も居ないのにどうやって? 看守なんてもう来ない」

「安心しろ俺には秘策がある」

「なら最初から使え」

 僕は呆れてため息をつく。勝手に逃げればいいさ。僕は別にやりたいことなどない。

「タイミング待ってたんだよ。てめぇも気づいてるだろ。三日前まで銃声がしまくってたぜ。あんなカオスはゴメンだね。殺人鬼ってのはナイフ一本で戦うものなんだッ!」

 ガキンと金属音が鳴る。ペタペタと足音がする。僕の牢屋の前に一人の男が立っていた。長髪黒髪の男。つまらさなそうに僕を見下ろしている。

「声で分かってたけど若いなぁ。おっさん年を感じるぜ」

「どうやって扉を曲げたの?」

 僕は訝しげに男を見る。男はニヤリと嗤う。

「あのクリスマスの日、俺は素晴らしいもん手に入れたんだよ――最悪のプレゼントだぜ。俺の美学が汚れる……な」

「……逃げるの?」

「ああ、餓死はゴメンだぜ。いい加減腹減った。牛丼でも食いに行ってくるよ」

 百足はひらひらと手を振りながら廊下を歩く。僕の牢屋の前を通る。牛丼なんて食べられる世界だと良いけど。僕はゆっくりと立ち上がり――用意していた鋭い石の欠片を即座に拾った。百足の頭部に向かって投擲。

「は!?」

 百足は驚きながらも咄嗟に拳を振るって……しまった。石と共に牢屋の扉を殴打。何かが曲がった音。僕は全力で牢屋を蹴りつける。ひん曲がった扉が吹き飛ぶ。百足が驚愕に満ちた表情で僕を見る。勝負は一瞬。僕は予想通り鉄格子から折れ曲がって分離した鉄の棒を地面から拾う。

「知ってる? 屑を殺しても心は傷まないんだよ?」

「……良いねぇ。てめぇ最高に殺人鬼やってるよ!」

「美学は?」

「知らないねぇ! 生き残った奴が勝者だろがぁ!」

 百足が僕の視界から消える。微かに残留した霧が揺れ、攻撃を知らせる。突如、拳が僕の顔面に迫る。僕は避けなかった。顔面がひん曲がりそうな鋭い痛み。嗚呼、結構、心地良いな。百足の目には僅かな恐怖が浮かんでいた。避けると思ったのだろう。だから隙が生まれる。右腕に握った鉄の棒を百足の心臓に突き刺す。ボタボタと音を立てながら血が床を汚す。百足はよろよろと後ろに下がった後、冷たい床に倒れた。

「死んでもいいと……死にたいは別だ。天使様に救われたのなら、せめて……僕は足掻く。そうしなくちゃ」

 僕は顔面の血を拭う。痺れるような痛みが僕が生きていることを実感させる。それぐらいのことしかできそうにないから。それだけをやるんだ。そのためには……。僕はカツリカツリと反響する自分の靴の音を聞きながら出口を目指した。


 終末世界というものがあるというなら、正しくそれはここなのだろう。地下牢を出た瞬間、脳が飛び出た少女が倒れていた。服は着ておらず腐った匂いのする体だけがある。汚らしい。僕は死体だらけの街を歩く。ゾンビはまだ街の死に気づいていないらしく純粋な死骸の山が積み上がっていた。屋台には誰もおらず家の窓ガラスは割れている。遠方から銃声が響いた。心臓が跳び上がりそうな怖い音。

「くっ来るな! 犯罪者!」

 背後から叫び声が聞こえ振り返る。僕よりもよっぽど若い小学生ぐらいの少年が拳銃を震える手で握っていた。引き金を引かれれば僕は終わる。僕にはもう都合の良い人格なんてないから。彼は既に死んでいる。僕はゆっくりと少年に近づく。

「撃つぞ、撃つぞ? 本当に、撃つからな! 俺は」

 僕は少年の拳銃に触れる。少年は撃たなかった。涙をこぼしながら僕を睨みつけている。きっと彼は優しいのだろう。きっと彼は正しいのだろう。

「あぎっ!」

 僕は少年の手を捻って拳銃を回収する。正しさは嫌いだ。だって僕に夢を見せるから。ありもしない幻を見せるから。熱ぽかった視界がクリアになる。

「ごめん、僕は生きなくちゃいけたいんだ」

 冷たい拳銃の引き金を引いた。ズドンと腕に衝撃が伝わる。さっきまで喋っていた少年はあっさりと仰向けに倒れる。僕は銃を額に当てて痛みなく死ねたことを祈る。仕方なかった。目的のためにリスクは排除しなくては――いけないから。

「生きるために、僕のために、僕は誰かを殺す」

 自分に言い聞かせる。罪をこの身に刻むために。僕は市役所を目指して濃霧の漂う街を歩いていると、何処かで見たことのある修道服を来た女が倒れていた。死体の顔をあげると端正な顔立ちは恐怖に歪んでいた。きっと嫌な現実を見てしまったのだろう。



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