第47話

「嗚呼、馬鹿だ……私」

 つばめは力なく屋根の上に倒れる。僕はただ虚飾の顔に目を向けていた。包帯の隙間からは病的なほど白い肌と真紅の冷徹な瞳、そして銀髪の長髪。見慣れた顔からは一切の感情が消失していた。それでも寸分違わず彼女は――。

「ユ……ア……?」

 僕は呆然と地面にへたり込む。日が登る。燦々と赤く輝く太陽を背に虚飾――唯愛は包帯を煩わしそうに解き愛おしげに僕を見つめた。ゾンビが僕の体に齧りつこうと手を伸ばす。瞬間、血肉が眼前で弾け飛んだ。腕が吹っ飛んだ。ゾンビがうめき声をあげすぐに黙る。首が鋭利な断面で切断されていた。僕の目の前には先程まで屋根の上に居た唯愛の姿。

「どうして……唯愛? 何故?」

 僕は唯愛の顔を見上げながら言う。唯愛は悲しげに息を吐く。そんな憂いを込めた瞳さえも美しかった。

「そんなの決まってるだろ。君を手に入れるためだ。私が君の英雄に――神になるためだ。そのために今まで生きてきた」

「何……言ってんの?」

「鷹也は何も分からなくても良い。どうせ結果は変わらない」

 一体のゾンビが背後から唯愛に近づこうとする。

「失せろ」

 唯愛はぎょろりと鮮血の色をした眼球でゾンビを睨みつける。周囲のゾンビたちがゆっくりと後退。唯愛は大仰に腕を広げ空を見上げる。

「では、改めて自己紹介といこうか、鏡音鷹也! 僕、いーや――私は虚飾。嘘と偽りを享受するこの世界の捕食者、八咫烏の主である。断言しよう。私はこの時、この瞬間のためだけに生きてきたんだ! 君を救い、君の神に成り、共に生きていくためにだ!」

 唯愛の舐め回すような視線を受けて僕は咄嗟に銃口を唯愛に向ける。手が震える。状況が理解できない。唯愛が虚飾。三年前に出会ったあの包帯の不気味な人物。

「撃っても言いが……私は死なない。君の愚かな姉と違ってな」

 唯愛は僕が持っている銃を握る。僕の手が唯愛に動かされ引き金を引いた。ズドンと鋭い衝撃。唯愛の頭蓋に風穴が開く。唯愛は上空を見上げたまま血を額から垂らす。数秒後、平然と頭から垂れた自分の血を舐め、嗤う。

「ほーら、死なない。鷹也、知ってるか? この世の神はこの霧なんだ。霧は喋り、嘘を吐き、人に力を与える。ソイツにふさわしい力、ギフトだよ」

 唯愛が子供に言い聞かせるように僕に優しく言う。霧が唯愛の言葉に応えるように蠢く無数の人間の顔を作る。泣き叫び、懇願し、ただ黙しているもの。

「……どうして助けてくれないの?」

「お母さんお母さん痛い痛い痛い、助け――」

 ぶつぶつと霧が男の声で、女の声で呪詛を吐く。唯愛は愛おしげに頭部が抉れた少女の頬を撫でる。

「偽りの神は争いを奨励している。鷹也、君は選ばれたんだ。この私が、君を守る。あんな姉や、さっき殺した女――いやつばめとは比べ物にならないほどの幸福を約束しよう。妥協はしない」

 唯愛が僕の頬を撫でる。

「千人殺せ、鷹也。そうすればこの忌々しいウイルスを克服できる。永遠が手に入る。楽園を創ろう。私と君だけの世界さッ!」

 唯愛は恍惚とした表情で言う。僕はその柔らかな肌に触れられる。際限のない恐怖に襲われる。コイツはナンダ。唯愛な訳がない。唯愛はそんなこと言わない。唯愛は――仲間を殺したりしない。

「戸惑ってるのか? 分かるよ。けど大丈夫。始まりは誰もが恐怖を感じる。けどいずれ慣れる。初めてもそうだっただろ? 一緒に殺そう、人間を殺すのが心が痛むならこの」

 唯愛は顎でゾンビたちを指す。

「虫けらでも良い。彼らにも魂がある。殺せばカウントされる。こいつらは殺りやすい」

「えっ!」

「馬鹿だからな」

 一瞬で唯愛の姿が消える。男のゾンビの目の前に唯愛が移動。ゾンビは呆然と立っていた。次の瞬間、ゾンビの頭がボールのように蹴り飛ばされる。唯愛の靴から鋭利な刃物が飛び出していた。ギラリと光る。頭部を失ったゾンビがバタリと地面に倒れる。

「さぁやろう、鷹也! 私達の世界を今から創ろう! 私達の目的は最初から一つだけだ。楽園に辿り着く、そうだろ、隊長!」

 唯愛は僕に手を差し出した。


 僕は逃げようと立ち上がり――呼吸が突然できなくなる。体は宙に浮き眼前には唯愛の姿。僕の首をキリキリと締め上げる。

「がっ!」

「酷いよ……鷹也。逃げるなんて……君に告白してるんだ。お願い、してるんだよ」

 唯愛は僕の眼球を覗き込もうと顔を近づける。

「頂点たる私が君に恋い焦がれてるんだ。君が欲しいと言ってるんだ。少しはときめかないのか?」

 息ができない。視界が朦朧とする。意識は切り替わらない。なぜ? 唯愛は僕の思考を見透かしているのか薄く笑う。

「前も彼に邪魔されたよ。私達の素晴らしい再開を、ね。今度は邪魔させない。鷹也は君だ。無力で愚かな君しか、君の中にはいない」

 僕は必死に爪で唯愛の手を切り裂く。不気味な霧とともに傷口が瞬時に再生する。

「種は簡単。君の人格は急激な状況の落差にしか反応しない。だからこんなふうに」

「がっ!」

 より一層、唯愛が僕の首を締め上げる。意識が飛びそうになる。

「ゆっくりと痛めつけると変わらない。霧が濃いと酸素が薄くなり反応が鈍くなる。ねぇ、鷹也。もう、君を守るものなんて居ないんだ。残った仲間は、私だけだよ。私を信じろ」

 僕は力なく腕を下ろす。変わらない。変化は来ない。自分を助けてくれる都合の良い人格などとうに――居ないのだ。僕は自分の瞼から涙が零れるのに気づく。

「可愛いなぁ、鷹也。君はファンサービスが上手いね。大丈夫だ。気を失っても、必ず私が守るから」

 唯愛は優しげな瞳で僕を見る。僕はただ呆然と唯愛を見つめた。敵意など微塵もない。姉が注いでくれたの愛と似た同じ深い愛情。ただ折れ曲がりそうなほど歪んでいる強い愛。それが僕の首を絞めている。

「愛してる……鷹也。あの時から、ずっと、私は、君のために生きてるんだから」

 唯愛は一言一言噛みしめるように耳元で愛を囁いた。


「……私の、邪魔をするなよ! だから、貴様は、助けたくなかったんだッ!」

 唯愛は突如、空を睨みつけ叫ぶ。何か居るのか? 暴風が巻起こった。唯愛は僕の首から手を離し後退。刹那、地面が風で抉れた。砂埃が吹き荒れる。僕は咳き込み。さっきまで居なかった眼の前の人物を見つめる。灰色のボロボロの服に、灰色の髪、真紅の眼球がつまらなさそうに僕をちらりと見た。

「天使……」

 僕は呆然と呟く。

「天使ちゃんです。ほら喜んで下さい。馬鹿な鷹也さん」

 天使は肉塊でできた歪な羽を羽ばたかせる。風が巻き起こり、僕は咄嗟に腕で目を覆う。

「な……んで?」

「さぁ、何ででしょうね。どっかの馬鹿が、助けたからではないでしょうか?」

 天使は唯愛に向き直る。唯愛は失笑。

「この私が見逃してやっていたのにノコノコ出てきたのか? 君も私と同じだ。霧に選ばれ惑わされ、何者かを演じている」

「同情ありがとうございます。惑わしてるのは霧じゃなくてナンパ野郎だと思いますけど。けど、残念。私、唯愛さんのこと嫌いなので」

 天使は背中に生えた肉塊を巨大な掌に変形させ唯愛が殺したゾンビの死骸を掴み投擲。唯愛は靴についた刃で死体を切断。細切れになって血肉が地面に落ちる。

「ネームド、エンジェル。鷹也の慧眼は冴え渡ってるな。私の仲間の一人が君のことをこう呼んでいたよ。始まりのゾンビとな」

「失敗作には過剰な名前ですね。後、唯愛さんに仲間なんて居たんですか?」

「君を拷問すればこのウイルスのまっとうな克服方法でも分かるのか?」

「あいにく知りませんね」

「では処分決定だ。君は私と鷹也の邪魔になる」

 唯愛は一歩、天使に向かって踏み出す。天使はちらりと後ろにへたり込んだ僕を見た。

「本当弱っちいですね。はっきり言いますとね」

 天使は頬を染めながら僅かに目をそらす。

「救われたんですよ、貴方に。私、見ての通りの化物ですので。ただの子供だなんて勘違いしてくれる貴方が――やっぱり気に入ってるです。だからお別れですね」

 天使は背を向けて進む。僕は震える足をどうにかして立ち上がらせ手を伸ばす。天使まで死んでしまったら、僕の味方は何処にいるんだ? 逃げる? これからどうするかも分からないのに。天使の華奢な肩を掴む。天使の掌が僕の手を包み込む。

「……ご武運を。戦わなくては生き残れませんから」

 天使は強引に僕の手を引き剥がす。天使は唯愛に向き直る。唯愛は鋭利な針が飛び出た靴でコツコツと地面を突く。

「終わったか?」

「ええ、存外優しいんですね」

「何を言ってる。私ほど鷹也を愛してる存在は居ないさ……鷹也、十日後に僕らはまた出会う。それまで……待っていてくれ。霧よ」

 唯愛は右手を振るう。霧が膨れ上がりこちらに迫ってくる。僕の体を濃霧が包む。

「愛、アイ、あいしてるよ……鷹也」

 不気味な霧の声が耳元で聞こえる。急激な脱力感を感じる。目が霞む。唯愛は右足についた刃を振るい宙を割く。空気が嘶いた。唯愛はぺろりと舌で唇を舐める。

「さようなら、鷹也さん」

 天使は僕の腕を掴みと軽々と僕の体を持ち上げる。背後に放り投げられる。天使は僕に微笑み――右腕を振った。人間の腕が変形して鋭利な灰色の刃を創り出す。

「あと一応訂正しておきますが。貴方のそれは愛ではなく、ただの――支配欲求です」

 天使は皮肉交じりに言う。唯愛はぴくりと眉をひそめる。

「死人に口なしという言葉を知らないのか? 死体に愛を語る資格などない」

「不死身の化物の言葉とは思えませんねッ!」

 天使は変形させた腕を一閃。地面が抉れ砂埃が舞い上がる。僕は震える足でその場から立ち上がり逃げた。


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