第42話

 全てが夢だったのか。僕は今までのゾンビとの戦いを思い出してそう思った。窓ガラスからは久しぶりに陽光が差し込む。僕はふかふかでいつまでも微睡んでいたくなるベッドから這い出る。香ばしい匂いがして寝室の扉を開けると姉が人間の腕でマグカップを持って飲む。

「おはよう鷹也」

 姉は微笑を浮かべ僕を見る。僕は呆然と返事をすることなく立っていた。姉だ。本当に姉が生きているのだ。

「顔を見て、泣かないでよ」

「えっ!」

 僕は瞼に触れると僅かに湿った感触がした。姉は席から立ち上がって僕の涙をそっと手で拭う。

「ねぇ、朝食にしましょ。鷹也と食べるのは久しぶりね」

 姉はキッチンに立ち玉子の殻を割って料理を始める。みるみるうちに手際よく料理ができていく。僕はただ席に座って待つ。テーブルの上にはだし汁の良い匂いがするだし巻き卵とバターが塗られた温かいトースト。僕は無意識に手にとって齧りつく。懐かしい味がした。四年前のあの日以来、まともな食事などほとんど食べたことがなかったことを今更自覚する。

「大丈夫よ。鷹也。これからずっとずーとお姉ちゃんが貴方を守ってあげる」

 僕の忘我の表情をどう受け取ったのか姉は優しく僕を抱きしめる。視線は無意識に首元を見つめる。赤黒くて誰かに絞められた痕がある。誰にやられたのだろう。けどどうでも良いか。そんなこと。

「うん、ありがと。姉さん」

 僕は姉を抱きしめ返した。もう戦う必要などないのだ。ここが僕の楽園で辿り着くべき場所だったのだから。姉の腕の中は少しだけ腐った匂いがした。


 姉と会ってから一週間が経った。身も心も僕は死体になったのか。この狂った楽園での生活も次第に慣れてきた。

「よっ、相変わらず腐った顔してんな。ゾンビだから当然だけど!」

 いつものように散歩していると顔にツギハギの入った元気そうな少年が話しかけてくる。年齢は僕より若い。

「静哉、君は相変わらず臭いね」

 僕は鼻をつまみながら少年のゾンビ、寒蝉静哉の顔を見て言う。静哉は村の外れにある姉の家の近くに住む少年。何でも家がなくそこら辺で寝ているらしい。

「お前と比べたらみんなそうだぜ。なぁ、何かコツでもあるの?」

「君の場合は家で寝るだけで変わると思うけどね」

「ど正論ぶちかまされた」

 静哉はケラケラと笑う。

「で、今日は何のようなの。大抵いつも碌でもない場所に連れて行かれてるけど」

 僕はできる限り疑わしそうに彼を見つめる。

「そりゃ、鷹也が可笑しいだけだぜ。大抵の男は大好きなんだけどな。娼館とかリアルバトルロワイヤルとか!」

「痛いのはごめんでしょ」

「分かるぜ。俺も最初はそう思ってた。けどな慣れてるとそうでもないぜ!」

 静哉は血だらけの右腕を見せてくる。刃物で切り裂かれた傷口。明らかに致命傷なその傷は急速に再生している。

「まっ、今日のお誘いは平和なもんさ。神社だよ。神社、俺もそろそろ神仏に目覚めようと思ってな」

「どうせさっきまで娼館って言ってたのに」

「何で分かんだ? 今どきの神様はケチなこと言わねんだよ。あ……そういえば、鷹也って暇なの?」

「今更……僕は年中暇だけど」

 僕は自嘲気味に笑った。いつも通り、姉が作る朝食と夕食を食べて寝るだけ。平和な毎日さ。

 

 僕は静哉についていく。次第に村の荒れた通路から外れ、周囲が木々に覆われていく。村に充満している鼻の曲がりそうな腐敗臭が収まり僕は息をつく。山道には草道を掻き分けた痕があり、今までも多くの人間が通ってきたのだろう。ふと、横の木に刻まれた傷跡が気になった。よく見ると全ての木々に刃物で数を数えるように傷をつけた痕があった。霧に微かな光が差し込むことで無数の蛍が飛んでいるかのような幻想的な光景が映し出される。僕は景色に見とれながら山道を登っていく。

 ごくりと息を呑む。辿り着いた場所には巨人でも潜れそうな片柱の真紅の鳥居。砂利道を塞ぐようにもう一方の鳥居の柱が神殿の前に堂々と鎮座していた。ぼうぼうと生え茂った草むらから無数の死体が見える。そこは終末世界。村や今まで歩いてきた死んだ都市の街並みなど比べ物にならないほど、濃厚な死の気配がする。だというのにただただそこは神々しくもあった。

「静哉?」

 静哉は無言でふらふらと砂利道の上を歩き壊れた鳥居の柱を乗り越える。膝をついて神殿に向かって両手を合わせ祈った。静寂の後、いつもは馬鹿なことばかり喋っている静哉の口が動いた。

「はい、分かりました」

 嫌に丁寧な言い方で静哉は言った。次の瞬間、静哉は頭からバタリと倒れる。

「おいっ静――」

 僕が助けようと歩こうとする、周囲にあった霧がゆっくり静哉に集まり始める。静哉は壊れた人形のように不自然な挙動をしながら立ち上がりこちらを向いた。静哉が小さく息を吐くと白い死の煙が吐かれた。目には生気はなく。表情筋は一切機能していない。

「ヒ、サシ――ブリだね。鏡音鷹也」

 静哉だったものはゆっくりと人の言葉を喋る。聞くものを虜にする女の声。僕は言い知れぬ本能的な恐怖を感じその場から後ずさる。霧が蠢き僕の周りにまとわりつく。ぺたりと僕は尻を付いた。静哉は無表情で僕を見下ろす。

「もう――分かったでしょ。世界に……希望ない。生きる意味も……ない。君、姉を見つけただろ。救われた? 救われた」

 静哉は僕の眼球を覗き込んでくる。底の見えない黒い壁面のような目。

「そう――救われた? だから……もういい。死ねば幸せ。痛みなく苦しみなく、汚れのない世界が……待ってる?」

 静哉はカクリと首を傾げる。痛みのない……救い。姉ももう見つけたんだ。死ねば救いがあるのか? 死ねば僕は――。

「幸せになれるの?」

 静哉は口元を醜悪に歪めた。

「そうシアワセシアワセシアワセ? 君はシアワセになるよ。だって私は……君をアイしてるから」

 静哉はゆっくりと僕の頭に手を伸ばす。霧が僕らを包み込む。嗚呼、ようやく全てが終わるのだ。仲間が居て姉を見つけて――僕はシアワセだった――のか? 分からない。いつも分からない。何もかもが消えるのだ。静哉の手が僕の頭に触れ――。

「名探偵は――人殺しを許さないッ!」

 聞き慣れてしまった陽気な声が聞こえた。

「ン――がぁ!」

 静哉の首が音を立てて曲がる。好戦的に歯を剥き出しにした少女が静哉の首を蹴り飛ばした。静哉はさっきまで喋っていたことが嘘のようにあっさりと地面をバウンドして――沈黙。僕は目の前に立つ少女を見上げる。真正つばめはいつもの馬鹿そうな笑顔を消して僕をたたただ憤怒の視線で睨みつけていた。

「んで――名探偵は仲間を死なせないのッ!」

 つばめの掌が僕の頬を盛大に蹴った。

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