第41話
陽光があまりに眩しくて僕は腕で顔を覆う。包帯の巻かれた右腕を見て僕は飛び起きる。肌寒さを感じて体に触れてみると裸だった。僕は自分の体に異常がないかペタペタと触れてみるが何も感じない。もう既に感染してから結構な時間が経っているだろうに何の症状もない。脱力感も熱も――ない。僕は肌寒さを覚えながら体を起こす。
「おは……よ」
「ッッ!」
突然、灰色のベッドの中から声がして僕は飛び起きる。女は瞼を擦りながら鬱陶しそうにシーツを放り投げる。女らしく膨らんだ胸、丸みのある身体が惜しげもなく僕の目に晒されている。僕は恥ずかしくなって咄嗟に目をそらす。
「鷹也君……純情。昨日はあんなに激しかったのに。結構可愛いかも」
猫宮はベッドに胸を押し付けながら僕を上目遣いで見つめる。あまりの恐怖で人格が切り替わったのか。昨日のことなんて覚えていない。ただ昨日、僕は確実にゾンビに傷つけられたはずだ。
「知りません……」
僕は寝室から出る。見慣れないリビングが広がっていた。
「愛しい鷹也君に朝食でも、作ってあげる」
後ろからシャツだけ着た猫宮が出てきてキッチンに立つ。どうすれば良い。逃げるべきか。けど……不可能だ。まだ逃げるべきじゃない。僕が思考の海に浸っている間に目の前に皿が出される。ぐちゃぐちゃの黄身が固まった目玉焼きと焦げたベーコンだった。
「…………」
僕は危機的状況も忘れて猫宮をちらりと見る。猫宮はニコニコ笑顔で僕を見ている。改めて目玉焼きを見る。変わらない。人間の肉よりはよっぽどましだけど純粋に不味そうだ。僕は吐き気を堪え飲み干し食事をした。猫宮はいつの間にか鼻歌を歌いながら外出していた。僕は扉に耳を当てて誰も居ないことを確認し、扉を開けた。
家の外は昨日見た外道だった。ボロボロの家が立ち並び周囲から怒鳴り声が聞こえる。見ると、道端で大柄な二人のゾンビが殴り合っていた。拳が頬を殴りつけるたびに、びしゃりと血が地面を汚す。
「ハッハハハ! 俺様の勝利だぁ――ぼぁ」
馬乗りなり殴っていた男がうめき声をあげて倒れる。倒れていた男は立ち上がり右腕を振り下ろす。顔面に拳が当たり鈍い音が鳴る。誰もこの状況で動かない。違和感を感じない。それどころから周囲からはあざ笑うようなクスクスという声。僕も呆然とそんな現実を見ていた。
気がつくと日が暮れていた。つばめや唯愛、百合園はどうなったのだろうか。上手くゾンビとして振る舞って潜伏しているのだろうか。僕には何処に居るのか分からなかった。数日後にゾンビになる僕にはもう関係のないことだ。空を見上げると今日は久しぶりに月が見えた。弾丸で穴が空いたような欠けた満月。
「いやあぁぁ! やめて、やめてください!」
涙混じりの悲鳴が聞こえる。ふと路地裏を見ると白昼堂々喧嘩していた男の一人がボロ布を着た少女の肩を掴んでいた。
「今更何いってんだ。勝ったのは俺だぞ。あんなブサイクより。俺の方がよっぽどマシだろうが」
「痛い痛い痛いです!」
「黙れ、てめぇは股開いてりゃ良いんだよ」
男が思いっきり少女の顔面を殴りつける。少女は鼻血を抑えながら足をひこずって逃げようとする。男は少女の頭を鷲掴みにする。
「いやぁ、最高の生活だぜぇ、強いやつが全部手に入れる。女も酒も――あはは! 霧様々だな」
男は興奮した様子で泣き叫ぶ少女の服を引きちぎり手を伸ばした。僕は怖くなって後ろを向いて逃げ出した。ゾンビの目など気にせずに走る。自分があれと同じ存在になって死ぬのだと思うと姉のことなどどうでも良くなってしまった。僕は生きていたい。ただ生きていたかったのだ。
「ごめんごめんなさい」
僕は誰に言っているのか分からない言葉を零しながら。ゆらゆらと自分が入ってきた門に向かう。それを塞ぐ人影。僕はゆっくりと顔をあげる。
「鷹也君、みーつけた!」
猫宮がぺろりと口元を舐めて言った。
「どーこ、行くのかにゃー。ここ、幸せでしょ? 男は漁り放題。あっ、もしかして私が他の男と寝てるから嫉妬しちゃった。ごめんねぇー、それだけは許して。退屈しのぎだから。本命は君だから。今はね……」
猫宮は僕の肩に触れる。
「だって君って凄く賢い――まるでゾンビじゃないみたいに」
僕は反射的に後ろに跳んだ。猫宮はニマニマとこちらを見ている。
「知ってる? 霧神様はね。私達に力を与えてくれたの。不死の力。腕が千切れても痛くない。けどぉー、ちゃんと気持ちいいことできるの。子供できないけど。まぁ、いらないよね。永遠に死なないんだから」
猫宮はブツブツと言いながら、銀色の刃を取り出す。小さな包丁が月光を受けてギラリと光る。今日は久しぶりに月光が差していた。
「へぇーその反応。本当に鷹也君って人間なんだ。久しぶりに見たよぉー。生きた人間。人間ってどうやったら私達の仲間になるんだっけ。教えて霧神様。あれ、どうやったけ。まぁ殺せばいいや。そうだよね神様。だって君、美味しそうだからッ!」
猫宮が踏み込んでナイフを振るう。予想以上の敏捷さに避けるのが遅れる。腹部に鋭い痛み。僕は咄嗟に腹部を左手で抑える。じんわりとした生暖かさを感じる。地面にぽつりと赤い血液が垂れる。突然、首に衝撃。猫宮はその身からは考えられない剛力で僕の首を絞めて持ち上げる。意識が変わらない。分からない、僕はどうすれば生き残れる。
「ゾンビになったら結婚しようね。鷹也君!」
猫宮は僕の脳天に向かって刃物を突き出した。銀色の刃を見ながら僕は、ようやく終わるのだと少しだけ安心した。風を切る音がかすかに聞こえた。ぐしゃりと嫌な音がした。僕は地面に尻をついて落ちる。
「えっ!」
首元を見ると半ばで千切れた白い腕だけが僕の首を握っていた。僕の足元に灰色の羽がひらりと落ちる。暴風が巻き起こり風が顔に叩きつけられる。ゆっくりと瞼を開くと異形の怪物が居た。人間の女性の体に両腕の代わりに生えた翼。黒髪黒目で右目の下に泣きぼくろ。首にある赤黒い傷跡が痛々しい。
「――鷹也……やっと会えた」」
女性、鏡音飛鳥は涙を流し僕を見ながら鳥の足で猫宮の死体をぐしゃりと踏み潰した。
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