第40話

 僕は足を引きずる振りをしながら村に徐々に近づいていく。

「およっ! 新入りか?」

 門番と思わしき片腕のゾンビが興味深そうに僕を見てくる。僕は胃の底から這い上がってくる吐き気を堪える。こういう知性を持ったゾンビが事前に居ると知っていてもやはり不気味だ。

「あ、あぁ」

 僕は精一杯ゾンビっぽく呻く。門番は僕の頭をポンポンと軽く叩く。

「嗚呼、ただのゾンビか。いやけど色良いしなー? まぁ良いか。よしっ、入ってよし。まぁ気にすんなや。この村にいればちょっとずつ考えられるようになるからな。俺みたいに頭空っぽでもガハハハ!」

 門番の男は痩せこけた顔で下品に笑う。僕は無視して村に入る。腐敗臭が鼻孔をつく。足元を見ると太った男のゾンビが地面に寝そべっていた。大きく欠伸をしてこちらを睨んでくる。僕は口から涎を垂らしながら彼を見ずに歩く。

「決まったぁぁぁぁ! 見たか、元格闘家の俺のパンチ!」

 道端で若い金髪の男が右拳を振り上げながら言う。右拳からはダボダボと血が垂れていた。

「わけぇわけぇな。あまちゃんが。ゾンビに拳は悪手だぜ。ほれ……ゾンビ化が始まってる」

 倒れていたスキンヘッドの男は立ち上がる。顔面はひしゃげて血だらけだった。若い男がうっと突然、胸を抑える。

「ヤバイ! ゾンビに……ゾンビに……残念、もう既にゾンビでしたーーー!」

 若い男がドヤ顔で言う。男二人組はゲラゲラと笑い声をあげる。そのたびにぽたりぽたりと血が土に落ちて染み渡る。僕は眉をしかめて見る。

「こんにちは」

「ッ!」

 肩に触れられ、僕は咄嗟にその場から飛び退く。慌てて後ろを見る。茶髪のサイドテールの女性が驚いて僕を見ていた。すぐに女性の目から驚愕は消え胡乱な瞳に変わる。

「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」

「……い、い。あ、大丈夫……です」

 僕は知性のないゾンビを完全に演じることは不可能だと判断。できる限りたどたどしく喋る。僕の様子を見て女性の口元が何故か緩んだ。

「そっ良かったー」

 ほわほわとした声で女性は言う。他のゾンビたちの皮膚が腐ったように灰色になっているのに対し、女性の肌は白いままだ。人間だと錯覚してしまいそうになる。

「私、猫宮綾女。貴方は?」

「…………鷹也」

「いい名前ねぇ。けど猫と鷹なんて相性悪いわね。食べられちゃいそう」

 猫宮はぺろりと口元を舐める。逆な気がした。僕は離れようと特に目的もなく地面を見ながら歩く。

「ねぇ、君。この村は初めてなの?」

 猫宮は当然のように僕の後をつけてくる。不気味だ。

「そう……ですけど。君は?」

「私はずっとここに居るわよ。四年、五年――五年前だったかしら」

「…………」

 五年前にIウイルスは蔓延していない。ゾンビ化すると記憶の混濁でも起こるのか。

「寡黙なのね。ゾンビ化してるのに珍しい。けど、その様子じゃ最近ね。あんまり――腐った匂いしないから」

 猫宮は僕の顔を覗き込む。鋭く細い目は僕の心を見透かそうとする。僕はできる限り平静を装って歩く。

「ねぇ、お腹すいたでしょう。お姉さんが奢ってあげる」

 猫宮は突然、僕の右腕に抱きついてくる。柔らかな感触が腕を包み込む。ゾンビなのに花のような良い匂いがする。猫宮は強引に僕を引っ張って屋台の前に来る。血が滴る足の生肉が紐吊るされていた。他にも鳥の手羽先、見慣れた牛肉が乱暴に紙の上に置いてある。

「ねぇーお兄さん。これちょうだいー」

 猫宮は甘えるような声で肉を指差す。五本の指がついた見慣れすぎた腕、皮膚を引き剥がされ筋繊維が露出している。痩せ細って確信は持てないけどこれは。

「…………」

 寡黙なスキンヘッドの男が猫宮を睨みつける。猫宮は冷笑する。

「後で暇だったらサービスしてあげるから……さ」

 猫宮は薄着の服の胸元を軽く引っぱって見せる。

「……性悪猫が」

「ふふふ、ありがと。イケメンのお兄さん」

 猫宮は血だらけの腕を取り、僕の目の前で牙を肉に突き立てた。ぐしゃりと嫌な音が鳴る。突き刺さった牙からボタボタと血が零れ落ちる。猫宮は頭を横に振り上げて肉を引きちぎる。血だらけの口元を腕で拭う。

「美味しいよ。どうぞー?」

 猫宮は口元から血を零しながら僕に食べかけの人間の右腕を渡してくる。はっとして、僕は勢いよくその肉を掴む。駄目だ。どうするこんなの食べられるわけがない。だけど、どうすれば。逡巡していると猫宮はニタニタとこちらを見て笑っている。バレている?

「硬いかな? じゃっ、私が噛み砕いて食べさせ……」

 僕は咄嗟に肉に噛みついた。鉄の味が口に広がる。力の限り顎で肉を噛み切る。吐き気を堪えながら生臭い肉を口に含む。猫宮はパチパチと手を叩く。

「鷹也君、豪快だー。やっぱ男の子はそうじゃなくちゃね。押し倒して蹂躙して……ふふふ」

 猫宮はとろんとした瞳で僕を見つめる。猫宮は肉を吐かないように堪えている僕の背中を押して路地裏へと連れてくる。僕は恐怖を表に出さないように必死で無表情に彼女を見つめる。猫宮はギラギラとした獣の如き瞳で僕の体を足元から頭まで舐め回すように見る。

「うーん、やっぱ我慢は体に悪いよ……ね」

 突然、強力な力で地面に押し倒される。腕を振り払おうと藻掻くと右腕に鈍い痛み。猫宮の爪が右腕に食い込んでいた。終わりだ。血が傷口に混じれば僕は人ではなくなる。

「――頂きます」

 猫宮は僕の唇を血だらけの唇で塞いだ。初めてのキスは血と絶望の味がした。

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