第39話
突然、ガサガサと草を掻き分ける音。誰かに付けられていたのか。
「追う!」
僕は拳銃を抜き放ち森の中に入る。土につけられた足跡を追おう。
「気づいてたら、教えて下さいよ! 百合園さん」
後ろから平然と僕に付いてくる百合園に息を切らしながら言う。
「残念、ついさっき。私達が開けた場所に出たお陰で気づけただけ」
百合園は枝に引っかかった白衣の裾を引きちぎる。
「足跡が……消えた」
「いや、今までより土の凹みが深い。跳んでる……あそこだね」
百合園は右方を指差す。僕が急いで土を見ると大きく土が靴の形に凹んでいた。僕は断続的な足跡を追って走る。遠方の木の裏に人影。
「居た!」
僕は咄嗟に声を上げ拳銃を構える。影は兎の如く飛び回る。今は撃つべきじゃない。ゾンビも来る。僕はポケットから二本のナイフを取り出した。僕は強く唇を噛む。これで変わるはず。血の匂いが口に広がる。
「雑魚だから逃げる……んで、雑魚は死ぬぇぇぇ!」
俺は一歩、右足を強く踏み込んで、ナイフを影に向かって投擲。風を切り裂いて一直線に跳ぶ。一筋の鮮血が散らされる。
「へぇー、凄っ! 少年、もしかして二重人格? 能力の変化も有り……か」
百合園の言葉を聞き流しながら、僕は歪んだ視界で人影が転倒するのを確認する。人影は慌てて立ち上がり、全速力で走り出す。退路を塞ぐように頭上から誰かが降りた。
「へいへいつばめちゃんさんじょ――うおっ、リアルゾンビじゃん!」
「おおおぉぉぉぉ!」
人影はつばめに向かって爪を振るう。つばめは身を捻り躱し、右手でゾンビを頭から地面に叩きつけた。ぐしゃりと嫌な音がこちらにまで響く。
「離せぇ! この劣等種共がぁぁぁ!」
ゾンビは明らかに人語を喋りながら藻掻き続ける。
「うぉ! 危ない。どうどう、落ちついてね、糞ゾンビ君ッ!」
つばめはゾンビの両腕を決める。ゾンビは声にならない叫び声を上げる。遅れてやってきた唯愛がゾンビの頭を踏みつける。べシャリと地面に血が散った。
「新種のゾンビだな。痛みを感じ叫ぶ機能があるとは幸福だ。殺しがいがある」
唯愛は獰猛な笑みを浮かべ、右手で鋭利な刃物を回した。ゾンビが歯を震わせながら頭上のナイフを見上げる。
「ほぉー賢い。良いぞ良いぞ。できる限り長く楽しんでやる。死人を痛めつけても罪などないから――な!」
唯愛はナイフをゾンビの右腕に振り下ろして押し込む。
「ぎゃあああああああ!」
ゾンビは絶叫しながら必死に動こうと藻掻く。僕は咄嗟に口を手で覆う。唯愛は朱色の唇をぺろりと舐める。恍惚とした表情で絶叫するゾンビを見下ろしていた。
「ちょっちょ、暴れ過ぎでしょ。てか、力つよっ!」
「抑えてろ。すぐに気力が尽きる」
唯愛はゾンビの頭蓋に向かって刃を振り下ろした。
「ごめんなさいごめんなさいごべんなさい」
ゾンビは泣きじゃくりながら蹲る。拘束もなく逃げられるのに逃げない。僕は見ていられなくて目をそらす。唯愛は切り株に座ってナイフに付着した血を白い布で綺麗に拭い取る。
「えっぐいね。君の仲間」
僕は必死に地面を見て心を落ち着かせる。泣きじゃくり懇願する声。冷徹な哄笑。頭を振るって不安を振り払う。
「この僕でも予想外だった……本当にゾンビの楽園が存在するとは」
唯愛は唇を噛み締めながら言う。人語を介すゾンビが喋ったのは確かにあの村が楽園と呼ばれていること。そしてそこには無数の死んだ人間が暮らしてること。では、姉はどうなっているのだろうか。やはりゾンビになって生きてるとも死んでるとも言えない存在に成り下がったのか。僕らはあまりの衝撃にただただ沈黙していた。
「ねぇ、隊長。本当に行くの? 鷹也のお姉ちゃん、ただのゾンビかもしれないのに」
つばめはぽつりと呟く。
「うん……そうかも、ね」
僕は上の空でつばめの言葉を聞く。不思議と姉がゾンビになっているかもしれないという事実を知っても――嗚呼、やっぱりそうかという気持ちにしかならなかった。何故だろう。何で、僕は姉を探したかったんだっけ?
「君たちが行かなくても、私は行くよ」
百合園は立ち上がって言う。唯愛が百合園を睨みつけた。
「ゾンビの楽園なんて、ぜひとも見てみたい」
百合園は口元を歪め言う。
「僕は――姉に会いたい。例え死んでゾンビなっていたとしても、この目で姉の姿をもう一度だけ見たい」
「……了解。我らが隊長の意志だ。叶えよう」
唯愛は静かに立ち上がる。ナイフをポケットに仕舞い直す。
「姉の死の真相。まさに私の仕事だね」
つばめは微かに震えた声で言う。怖くないわけがないのだ。ゾンビの大群の中に入るなど正気ではない。僕は震える右手を左手で握った。恐怖を振り払うために勢いよく立ち上がる。
「やろう。偽りの楽園の調査」
僕は隣で無気力に倒れているゾンビを見ながら、泥を頬につける。微かに黄ばんだ皮膚、骨ばった肉体。僕はできる限り健康的じゃなそうに化粧をする。パサリと地面に白い包帯を落とされる。
「使ったほうが良いぞ」
唯愛が自分の体に右目に包帯を巻きながら言う。僕はその唯愛の姿を見て何処か調律が取れているような気がした。ぼーと見ていると、唯愛が不思議そうに首を傾げる。僕は咄嗟に視線をそらす。
「あっ、ありがと。使わせてもらうよ」
僕は右腕に泥の付いた包帯を巻く。肉が締め付けられる感覚。
「一応言っておくが、もし僕が君の姉と会えば殺す」
「えっ」
唯愛は遠くを見ながら言う。
「僕は君に死んでほしくないからな。ゾンビに、死人に人の心など到底理解出来はしないさ。そこのゾンビ」
唯愛は倒れたゾンビを右足で小突く。
「明らかに痛覚が鈍っている。僕の拷問を一時間も耐えた奴は初めて見た。肉体は再生するが、脳を軽く抉れば記憶は飛ぶ。あのゾンビの記憶はほぼない。自分が自分であることさえ判断がついていない。君の姉だけが例外だとは――僕は思わない。それでも会いたいのか?」
僕は拳を強く握る。
「会いたいよ。死んでるにせよ生きてるにせよ。それが今の僕の目的だから。会ったら……次の夢が見える気がするんだ」
僕はできうる限り気丈に笑う。
「夢か……そうだな。僕もずっと見ているから少しは分かる。幸運を祈るよ」
唯愛は立ち上がるとナイフを取り出す。ゾンビは呆然と銀色の刃を見つめている。
「喜べ。ようやく終わりだ」
「終われる? やっと僕、死ねるの?」
「嗚呼、そうだ。僕が直々に殺してやるんだ。喜べ」
「ありがとうありがとうありがとうありが――」
唯愛は脳に刃を突き刺した。ゾンビは恍惚とした表情のままどさりと地面に倒れた。
日が昇る。僕は一人、枯れ木の生えた森を歩く。枝が擦れて皮膚を僅かに切り裂く。じんわりとした痛みが体を走る。霧に覆い隠されていた村の姿が徐々に見えてくる。崩れ落ちた家。ボロボロの木の柵。頬の横を小蝿が通り過ぎた。霧のせいで星の一つも見えない澱んだ空を見上げた。
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