第36話
泥濘んだ土を土瀝青の上で払う。見上げれば霧の中に無数の街灯の光が見える。足元を見るとシャツから赤い血液が落ちた。
「討伐隊が帰ってきた……」
「本当か! 本当に猿を殺ったのか!」
霧の向こうから大きな声が聞こえる。血だらけで泥だらけの僕らの姿を見た瞬間、歓声が爆発した。大柄な男が突然、僕に抱きついてくる。涙がシャツを濡らす。
「ありがとう、ありがとう。まさか……本当にやってくれるとは……」
「まるで、僕らが死ぬと思っていたような言い草だな。不快だ」
唯愛は纏わりついてくる人間を避けて僕の側による。
「名探偵ですからね。当然ですね」
「さっすが! お嬢ちゃん、見た目だけじゃない!」
「誰が妖怪乳女じゃ!」
「えっ、言ってねぇよそんなこ――ぎゃああ!」
遠方から断末魔が聞こえた。頬が緩む。僕らは生き残ったんだ。
いつの間にか周囲には屋台が立ち並び、橙色の光が道を照らす。
「で、唯愛は……どうして僕にくっつくの?」
「疲れた。鷹也、僕は結構働いだぞ。止めを刺したのは僕だ」
「知ってる知ってる。ありがと。まぁ、ほぼ僕が殺ったけ――」
僕はフランクフルトを持って直立している少女の姿を見て固まる。灰色の短めの天然パーマの髪に、真っ白な肌と真紅の目。ローブを羽織った少女がフランクフルトをフーフーと冷ましている。少女はこちらをじろりと見える。
「相変わらず、可愛い女性を侍らせてますね……鷹也さん」
「そう言われると僕が酷いやつに聞こえてくる」
「事実酷いやつですね。仲間殺しで投獄されたらしいという噂も聞きましたし……問題なかったようで何よりです」
天使はぷいっと目を逸らす。僕は天使の頭を軽く撫でる。
「今はどうしてるの?」
「……よく分からない資産家のお婆ちゃんと暮らしてます。退屈です」
「僕らみたいに戦争するよりはましだと思うけど」
天使が食べかけのフランクフルトを差し出してくる。食べろという意味だろうか。僕は遠慮なく小さく口を開けて食べる。天使は何故か僕の頭を撫で始める。同時に横から殺気が飛んでくる。唯愛が死んだ目で僕らを見ていた。
「僕に幼女趣味はないよ」
「幼女に頭撫でられてる変態の言葉は信用ならん」
唯愛はご立腹らしく、ズカズカと先に進んでいく。
「じゃ、僕も行くよ。お互い頑張ろう」
「……そうですね。貴方の結末に幸福があらんことを」
天使はいつの間にか人混みに消えていた。僕の結末? 何だろう? 僕は頭から雑念を排除して、唯愛を追った。ようやく追いつくとベンチに唯愛とつばめが座っていた。唯愛はパックのたこ焼きを僕に突きつけてくる。
「えっと……何で見せつけるの?」
「食え。鷹也の分だ」
「何、隊長? 飯見せつけられたいの」
僕は唯愛からたこ焼きを受け取って唯愛とつばめの間に座る。つばめは大きく口を開けて美味しそうにクレープをもぐもぐと食べる。口元にサンタさんみたいにクリームがついている。唯愛は焼き鳥を少しだけ不機嫌そうに食べる。僕はたこ焼きを爪楊枝で刺して唯愛の目の前に差し出す。唯愛はきょとんと首を傾げる。
「いや、食べたかったのかなーって思ってさ」
「僕が君のために買ったんだが……まぁ良い。ありがたく貰う」
唯愛はぱくりとたこ焼きを食べる。何だか餌付けしている気分だ。唯愛は僕が見ていることに気づき、すぐに顔を逸らす。頬が僅かに紅くなっているような気がした。
「……そこそこだな」
「うわー、唯愛ちゃん純真。ほらほら、クレープの切れ端ですよ」
つばめがクレープの生地をちぎって唯愛の前で振る。クレープの切れ端が唯愛の蹴りで地面にべチャリと落ちた。
「ぎゃあああ! 嫌よ……嫌よ! どうして……帰ってくるって約束したじゃない。そんな女の言葉を聞かないで、駄目よ! 死なないでクレープちゃぁぁぁぁぁん!」
つばめの絶叫が響き渡った。
僕は風の寒さに体を震わせた。湿った草を踏みしめる。少し一人になりたい気分だった。空を見上げると相変わらずの霧がかった空だった。ちょっとした山道を通り抜けると高台に出る。簡易的な木のフェンスに白衣の女性がもたれかかっていた。
「何してんですか? 百合園さん」
「あー、何? 誰?」
百合園はこちらをとろんとした瞳で見てくる。頬が赤い。これは相当酔っているらしい。百合園は僕の姿に気づくと視線を細める。
「ああ、少年か。生きてるってことは、本当に殺ったんだね、猿」
「死ぬと思ってたんですか?」
「うーん、八割死ぬと思ってた」
「意外と酷い人ですね百合園さんって」
「科学者だからね。屑じゃなきゃやってられないの」
僕はポケットに入れておいた板チョコを割って口に放り込む。微かな甘さが脳を刺激する。
「酒呑む?」
百合園が僕に向かって缶ビールを突き出す。
「やめときます……僕未成年なので」
「そっ、真面目ちゃん」
百合園はポケットから唐辛子を掴むと直接口に放り込む。すかさず、缶ビールをあけて飲み干す。
「ぷはあぁ、やっぱお酒は嫌なことを忘れさせてくれるから良いね……」
百合園は真剣な表情で星空を見上げる。
「どうだった?」
「何がですか?」
「勝って、殺して、称賛されて。どう思ったの君は?」
「どうも思いませんよ。姉を探すだけです。そのために戦いました」
「ふうん、君は長生きしそうだね。勝利に飲まれないほうがいいよ。ずっとずっと欲望が尽きなくなるから。酒に飲まれても、勝利には飲まれるな。それがお姉さんからの忠告かな」
僕はただ百合園の隣でフェンスにもたれかかる。沈黙が訪れる。百合園はゆっくりと何でもないことかのように口を開いた。
「ねぇ、少年。私ね、ずっと探してるんだ死のクリスマスを起こした屑。良かったら協力してくんない? この糞ウイルスのワクチンの開発と、世界最大の犯罪者を殺す――計画にさ?」
百合園は儚げに微笑んだ。僕は肯定も否定も何も返すことができなかった。不可能だと思う以上に考えたことがなかったのだ、逃げることが精一杯で、この腐敗した世界を変えるなんて。
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