第30話

 僕は霧がかかった太陽を呆然と見上げていた。掌を見る。その手で人を殺したはずなのに。血に汚れている感覚など一つたりとも感じなかった。なぜだろう。屑だからだと納得した。本当に? それとも慣れてしまったのか。たった一回の殺しで。分からない。僕は悩みながら昨晩も人が死んだ地獄を飼う街をゆらゆらと宛もなく歩く。路地裏の浮浪者も商品を購入する人々の大声も何も心を癒やしはしなかった。

「もしもし、そこのお兄さん」

 快活な少女の声。前を見るとシスター服を着た僕より若い少女が立っていた。辺りを見渡す。大通りからは少し離れてしまったことに気づく。

「えーと、必要ないです」

 どうせ、売春とか厄介なことだろう。

「えぇーと私まだ何も言っていないのですが?」

「何かあるんですか?」

「えぇえぇえぇ、ありますともありますとも。そこの憂鬱そうなお兄さん」

 少女は強引に僕の手を握ってくる。少女は何処か遠くを見ているような瞳で僕を見る。僕はため息をつく。

「何ですか?」

「不機嫌そうなそこのお兄さん、何かお困りで?」

「絶賛、変な女の子に絡まれて困っているよ」

「そんなつれないこと仰っしゃらずー神はどのような悩みでも聞いてくださいます」

「はぁ」

 僕は諦めて少女に従うことにした。

「霧はなぜ現れたかご存知ですか?」

「知らない。テレビだと不明だって言ってた気がする」

「それは愚かな政治家の策略なのです。無知な人々を騙し、神に逆らう悪魔へと変えるための」

 少女は大げさに手を広げて言う。

「神なのですよ。霧そのものが。霧は救いなのです。全ての人々に平等を与え、人々を幸福の世界へと導く」

 少女は恍惚とした表情。これはもう何を言っても駄目そうだ。

「貴方も見てきたでしょう? 霧による浄化。ゾンビとなった彼らは救われた魂が残した抜け殻なのです。我々は精一杯この地獄を耐え抜き、そしていずれ救われる。貴方にもいずれ天啓が下ります」

「そうだねー」

 僕は適当に頷く。少女は大げさに首を振る。

「そうです。そうなのです。ぜひ、今後のことを考え貴方も我々の活動を見てください。この世で生きていくという意味がきっと理解できるはずです」

 少女は強引に僕の腕を取り何処かに連れて行く。まぁいいか。憂鬱が少しは紛れるかも知れない。


 連れてこられたのは街の外れにある真新しい教会だった。周囲の雑草は茂り、扉には蔦が這っている。僕は少女が進む道を草を掻き分けて歩く。少女は無言で扉を押して開ける。巨大な扉が音を立てて開く。ステンドガラス越しの鮮やかな光に僕は目を細める。

 教会の中で人々が地べたに這いつくばり頭を地につき巨大な銅像を崇めていた。にやりと口元を歪めた人型の銅像。目も口も輪郭もなにかも霧のようにぼやけているが、確かにその背中に蝙蝠の如き翼が生えていることが分かる。完全に悪魔だ。僕を連れてきた少女はその場で平伏し銅像に祈りを捧げる。同時に人々が賛美歌を歌い始める。日本語とは程遠い低く濁った音色。僕はそんな教会の中で一人立っていた。鼻孔を少し甘い匂いがつく。賛美歌が終わる。少女はゆっくりと頭を上げこちらを向く。今なら確信を持って言える。彼女の瞳は朦朧としていて現実など見えていないのだ。

「どうでしたか、お兄さん」

「うん……そうだね」

「素晴らしいです。ご理解いただけましたか? 我らが神の偉大さを。大丈夫です。他の神々とは違い、霧神は信じる信じない問わず全ての人間を救うの――」

「ごめん!」

 僕は少女から逃げた。背後からかかる声も聞かずに全速力で街の中心部へと戻る。周りの景色がぼやけて、視界が揺らぐ。僕は路地裏に駆け込んで吐いた。ほとんど何も食べていなかったせいか唾液だけが地面を汚す。僕はじっと自分の吐瀉物を見ていた。気持ち悪い。


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