第19話
僕は便器を背にして蹲っていた。ここは静かで落ち着く。右手を広げて見つめる。一瞬だけ血が浮かび上がった。歯が震える。昨日、初めて人を殺した。少なくとも……僕が覚えている限りでは。嗚呼、どうして僕は生きているのだろう。仕方なかったのだろうか。霧のせいで。世界のせいで――でも結局殺したのは僕だ。
「姉さん……姉さんは何処に居るの? 僕、ずっと待ってるよ。ずっとずっと……助けてよ姉さん。いつもみたいに僕を外に」
考えたことがそのまま言葉になって出てくる。その言葉がまた不安を煽りまた言葉が漏れる。コンコンと小さくノック音が聞こえ、体がびくりと震える。敵? もうやめてくれ。
「はろはろー、隊長大丈夫?」
「大丈夫なわけ無いだろ!」
僕は思ったよりも狂暴で攻撃的な意思を込めて言った。つばめを気遣う余裕などない。放っておいてくれ。
「こりゃ重症だ。人殺したぐらいでそんなに病まないでよ。女の子に嫌われちゃうぞー」
つばめはいつも通り陽気な顔をしているのだろう。今はそれがただただ腹ただしい。
「君……みたいな、君みたいな人殺しには分かんないよ! 僕の気持ちなんて!」
僕は声を荒げる。右手を爪が食い込むほど握って、血が僅かに零れる。返事は返ってこなかった。きっと置いていったのだろう。
「――入る」
「えっ!」
轟音と同時にトイレの扉が勢いよく開く。便器に寄っていなければ死んでいたほどのスピードだ。つばめの顔からはいつもの笑みが消えてちょとだけ怒った様子で僕を見下ろしている。
「何?」
僕は顔を足に隠して言う。
「誰が人殺しじゃい」
「人殺しだろ。だって君は――遠征隊に選ばれたんだから」
「……まぁ、そうだね」
つばめは嫌に落ちついた声で言う。顔をあげるとつばめの顔が目の前にあった。物憂げな表情をしている彼女を初めて見た気がする。
「私――クリスマスの日ね。友達と逃げたんだ。弱っちい女性三人。いくら私が多少体術の心得があったからって限界があったの。だから」
つばめは悲痛そうに喉をごくりと鳴らす。
「殺した。最初、私の友達が可笑しくなっちゃって。外に出る外に出る言うもんだから私が止めてそれで――つい殺した。ゾンビにバレたらみんな死んじゃうし。銃器の扱い方なんて知らなかったし。そうしなきゃ、生き残れなかったから殺した。もう一人の子はね。ナイフで首に刺して自分で死んだ。あの時はびびったぁー。だって考えてみて。ちょっと落ち込んで家に帰ってきたら死体の山。そんな気分」
「その後は……どうしたの?」
「お墓作って埋めた。二人共。あはは、なんかね。作ってると不思議と笑えてくるんだ。虫のお墓みたいだなって。きっと鷹也も子供の頃作ったでしょ虫のお墓。超適当。石を置いてそれで終わり。人間の価値ってあの日以来そんなもんだよ」
つばめは茶色の瞳で壁を見つめる。
「けど、正義は別。私はずっとずっと自分が正義の味方で、正しいことをしてるって信じてきた。けどね、あの時、疑っちゃたの正義ってあるのかなって。私みたいな人殺しの手になんか――あるのかなって。既に正義失格なんだよ私は」
僕はつばめの言葉に何も言えなかった。だって何も知らないのだ。彼女のこと。
「つばめは……僕とは違うよ。僕は自分が怖いんだ。殺すのが怖かったはずなのに、殺すと決めた瞬間、体が勝手に動いた。まるで……ずっと昔から知ってたみたい、に」
あの時の感覚が僕の肌を未だに撫でている。僕は自分のちっぽけな体を抱きしめる。
「……人間って正義の味方とは程遠いね。きっと正義の味方の正体って――顔も感情もない、化け物だったんだよ」
つばめは扉を閉めずに出ていく。僕は閉めようと立ち上がって、だるくて諦めた。変わりはしないのだ。開けても閉めても進んでも止まっても何も変わらない。僕はただ瞼を閉じて眠った。僕の掌には見慣れた包丁が握られていた。
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