第9話
やばい――咄嗟に銃口を自分の左足に突きつける。引き金を引く手が震える。歯が突き刺さるまでの刹那の時間が何倍にも引き伸ばされたように長く感じられる。昔、足を切除して感染を免れた人間を見た。だから効果はあるはずだ。ゆっくりと重たい引き金を引く――。
「問題ナッシング!」
場にそぐわない陽気な声。顎を開いたゾンビの顔面を真正が蹴り飛ばす。あまりの脚力にゾンビは僕の腕から手を離し宙に放り出される。僕は反射的に鉄の板を掴む。下を見ると、遥か遠くに土瀝青が見えた。落ちたら即死。一気に恐怖に思考が支配され、板を握る手が震える。
「掴め!」
烏末の声で正気を取り戻して、僕は烏末の白く華奢な手のひらに手を伸ばす。見た目とは異なる力強さで一気に僕は持ち上げられる。転げ落ちそうになりながら階段に膝をつく。さっきほどの階段を見ると真正が壊れた階段を隔てて立っていた。
「真正ッ!」
僕のせいで真正が――。
「きゃー、怖い死んじゃう! 助けてっ――てね。残念そんなにか弱くないんだけどな」
真正は喋りながら迫りくるゾンビの大群に散弾銃を撒き散らす。血しぶきから一体の男性のゾンビが抜け出る。真正の顔面に爪を振り下ろす。
「ほい階段役頼んだ」
真正は狭い階段の上で身を捻る。ゾンビの突撃を回避。ゾンビは千切れた階段の端に頭から激突して硬直。
「ほいっと」
真正はぶら下がったゾンビを危なげなく橋の如く踏みつけて僕らの居る階段に辿り着く。つまらなさそうに振り向き、散弾銃を発砲し橋になっていたゾンビを地面に叩き落とす。僕は呆然と真正を見ていた。
「ありゃ、隊長心配しちゃった? 大丈夫大丈夫、本当に無理だったら助けないし」
真正はあっけらかんとした調子で鼻歌を歌いながら階段を登る。
「あ、ありがと」
「まぁね。名探偵兼正義のヒーローだからね」
真正は頭を掻きながら言った。
屋上についた僕らは三人揃って座り込む。
「摂取したカロリーを一気に消費した気がする」
烏末は拳銃に弾を込めながら言う。
「いやー予想外だったねー。あんなにゾンビ居るとは。水族館でゾンビ達もデートでもしてたのかな」
「デート相手は僕らじゃなくて良かったよ」
僕は息を整えながら立ち上がる。塀の上から下を見るとゾンビたちが集まっていた理由を失ったのか散らばっていく。周りには京都らしく背の低い建物だらけで見晴らしが良い。烏末が急に手すりに近寄る。
「誰か遠方に居るな?」
「ゾンビ?」
「ゾンビ如きなら報告しない――人間だ」
僕らの周囲の空気が急に冷えた気がした。人間――この世界での最も危険な天敵だ。そこら中に銃器が散らばっている今、どんな人間も偶然で僕らを殺せてしまう。
「どんな感じ? 見えないんだけど」
真正が烏末が見ている方角に目を凝らす。
「貴様に見えるわけがないだろう。これでも僕は視力が人間離れしてるんだ」
「だからその使い道のないスナイパーを持ってる?」
「使う機会がないだけど、だいたいリボルバーで事足りる。見た感じ居るのは大柄な男二人とその中心に――嫌な髪色だな。銀髪の女がいる。怪しすぎる」
「中心に居るってことはその女の子、ボス?」
僕はそこら辺に落ちていた弾倉を拾う。
「僕にはそんなお姫様には見えないな。どちらかと言えば奴隷だ。一瞬光っただけだから確信はないが、手錠を掛けられている」
烏末は平然と言う。僕は弾倉を突撃銃に思ったより強い力で装填した。奴隷――嫌な言葉だ。一瞬だけ薄暗い一室が頭の中で再生された。嫌で本当に嫌なことばかり思い出す。無意識に歯を食いしばる。
「善人ごっこはやめたほうが良いぞ。人身売買など今どきのトレンドだろ」
僕は烏末の視線から目を逸らす。正直、そう思った。けど助けるべきだと既に本能的に判断を下していた。
「まぁまぁ、いいじゃん。人助け、そんな悪いもんでもないよ」
「利得もなしに命を懸ける? 流石、ご立派な名探偵様だ。僕にはそのお花畑は見えそうにない」
「お花畑は心の綺麗な人にしか姿を見せないからね」
「――誰が無意味に花など見たいと思う」
烏末は苦虫を噛み潰したように唇を噛む。真正は少しだけ困った顔をして頭を掻く。
「まぁ利得だって一応あるから。私達、ここら辺のことほとんど知らないし。情報収集だと思って、ね?」
「好きにしろ。僕は鷹也の命令には従う」
「だ、そうでーす。隊長」
「……ないけどね。じゃあ、可能だったら助ける。情報収集を最優先」
僕の言葉に二人共銃器を背負って立ち上がった。
「本当にこんなところに入っていったの?」
僕はできる限り息を吸わずに喋る。そこら中から腐卵臭と鉄の匂いがする。いつ放棄されたか分からない黒いゴミ袋が積み重なって狭い通路をほとんど塞いでいて歩きにくい。
「あー、誰か居るね」
一番前を歩いていた真正の足が止まる。耳を澄ませると確かに壁の向こうから人の声が聞こえた。僕らは一斉に銃器を構える。烏末は壁に耳を当てこつりこつりと壁面を軽く叩く。
「空洞だな。何処かに入り口でもあるんだろ」
「破壊破壊、やっぱ人生は破壊だよね?」
「確実に戦闘になるから駄目でしょ。複数人に囲まれたらどうしようもない。扉を探そう」
三人で黙々と壁を触る。僕が壁に軽く触れると壁がずれる。
「たぶん、あった」
「おっラッキー。じゃあさっさと入っちゃおう」
「まず、顔をフードで隠せ。女は目立つ」
「そういえばそんな常識あったねー。あんまり人と関わらないから忘れてた」
僕らは急いで背嚢から烏に支給されているローブを取り出し着る。フードで顔を隠す。真正は扉を何度か足で小突き、右手で横にスライドした。小さくない摩擦音を立てながら壁が横にスライドした。中は薄暗いホテルの廊下。入室してきた僕らをぎょろりと無数の眼球が見つめる。ひげを生やしすぎて顔が見えない痩せた男や入れ墨の入ったスキンヘッドの男。八咫烏で慣れてるとはいえ、一斉にこういった男達に見られると少し恐怖感を感じる。けどその視線もすぐに僕から外れる。側に座り込んでいた中年の禿げた男が血眼で烏末のことを見ていた。
「神様……霧神様や。ありがとうございますありがとうございますありがとうございます」
男は何故か涙を流しぶつぶつと呟く。その間も視線は烏末の四肢を舐め回すように見ている。次の瞬間、男は烏末に頭から飛びかかった。真正は跳んだ男の股間を蹴り上げた。
「ひぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
男は悶絶しながら廊下でゴロゴロと股間を抑えてのたうち回る。
「変態滅殺」
真正がぽしょりと僕と烏末にだけ聞こえる声で喋る。他の浮浪者達がのたうち回る男を見て銃器に手を伸ばす。ものの見事に一人残らず銃器を持っている。ヤバい。冷や汗が流れる。隣で布が擦れる音が聞こえた。
「ここは――本当に鼻がひん曲がりそうな匂いだ。不快だ」
一気に高まっていた緊張が何かに塗り替えられる。発言したのはありきたりな言葉のはずなのにふつふつと心の底から恐怖が湧き上がってくる。僕は恐る恐る隣を見た。烏末は蛇のような鋭い赤い眼球と何色にも染まらない白亜の肌、ガラスのような透明度の髪を晒していた。周囲の人間が固唾を呑むのを感じた。
「おい貴様ら、私が臭いと言っているんだ。道を開けるぐらいの判断ができないのか? 愚かだな」
心の底を見透かし冷笑する。普段の烏末の言葉には僅かに優しさがあったのだと錯覚してしまうほど、今の烏末の纏う空気はこの場にいる全ての人間の心を掌握していた。ガタリと誰かが立ち上がった。
「あぁ……あぁなんて美しいんだ。僕は君を何処かで、み、見たことがあ、あると思うんだけど。気のせいかな気のせいだよね? だって君は仲間なんて作らないんだから。化け物で、誰よりも美しいんだから」
やせ細った男が震える声で言う。視線は右往左往し何処を見ているか分からない。手には銀を鈍く反射する鋭利な包丁。錯乱している。
「き、君のせいで僕の人生はめちゃくちゃだよ。あれだけ愛していた、かのちゃんだって、どうでも良くなったんだ。うめき声しかあげないし、何より君が――スゴく綺麗だったからっ!」
男は包丁を両手で力強く握り烏末に突撃した。
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