第6話

「いった!」

 僕は寝返りを打つたびに胸の痛みで目が覚める。自分のチョコを取り返そうとしただけでこれだけの蹴りを受けるとは思わなかった。烏末とはもう話したくもない。食料を管理できない奴が悪いんだ。

「眠れない」

 僕は眠ることを諦めてタオルを除ける。

「ふへへぇー、トリュフ、フォアグラ……」

 真正が馬鹿みたいにヨダレを垂らしてタオルに包まっていた。全く可愛さも美しさも感じない不思議だ。烏末がいた場所を見るとタオルだけがぽつりと置かれていた。僕は夜風に当たろうと、扉を開ける。伽藍堂の廊下を歩き、階段をできるだけ足音を立てずに上がる。冷たい風が吹いて、体がぶるりと震える。月光が階段の先に見えた。僕は階段を登りきり屋上に立つ。目を奪われた。錆びついた柵に背中を預け流麗な銀髪の少女が楽しそうに鼻歌を歌っていた。世間に疎いせいか、聞いたことのないメロディだ。微かに漏れた声は英語でハーブの名前。本当の意図は分からない。けど、不思議と吸い込まれる。凄く懐かしい風と過去の匂いを感じる旋律だった。僕は彼女の一挙一投足によって完全に支配されていた。けれど歌はいつか終わる。魔法が解けたみたいに世界は空っぽで再び孤独に満ちる。

「何……歌ってたの?」

 僕はできる限り不機嫌さを前面に出して烏末に問いかける。烏末はただ月を見上げた。まん丸で鈍く黄金色に輝く月とそれを彩る夜の星々。僕の爪が抉ったはずの頬の傷はいつの間にか綺麗さっぱり消えていた。

「あの日もこんな夜だったか……な」

 烏末は月に純白の手を伸ばし始める。無視されたことに僅かな苛立ちを覚えながらも、烏末の声を聞くと不思議と落ち着いた。

「あのクリスマスの日、僕も、きっと今生きているほとんどの人間と同じように――人を殺した」

 烏末は伸ばしていた手をピタリと止める。まるで自分には手を伸ばす資格さえないかのように。

「One murder makes a villain, millions a hero. 酷い話だ。殺人鬼は数百万人殺すまでずっと殺人鬼だ。どれだけ神に祈っても、人を救っても、ずーとずっとただの殺人鬼だ。僕は……ね」

 僕は烏末を見る。柵を強く割れそうなほど握りしめている。僕の怒りが消える。胸の内を支配するのはただの哀れみとも違う、微かな諦観だ。屑だと思いこんでいた人間にさえ感情はあるのだと、そんな当たり前のことに気づいた。だから僕は――。

「人殺しなんて――珍しくなんてないよ。こんな世界だ。仕方ないなんて言葉、言えないけど、それでも……それはもう罪でも何でもないよ。僕の個人的な意見だけど――神様は僕みたいな馬鹿は救わないよ。だから許してもらう必要なんてない。きっと烏末さんにも、そう思わせてくれるような人が現れるよ」

 幾ばくかの静寂が場を支配する。烏末の足元に何かが落ちた気がした。

「そう……か。ありがとう、鷹也」

 烏末はこちらに顔を向けずに階下への扉を開ける。去り際にちらりと振り返る。いつも通りの赤い瞳は少しだけ湿っているような気がした。

「――鷹也、今夜は……月が綺麗だな」

「そうだね。今日は満月だから」

 烏末が急いで階下に降りる音を聞きながら、僕は今一度月を見上げた。

「姉さん……何処に居るんだろう」

 心の底から絞り出した言葉は風にかき消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る