第2話

濃霧の中、僕は小さく一歩ずつ土瀝青を踏みしめた。ひしゃげて点灯しなくなった信号機はもう何も警告しない。一年前の話だ。人類はあっさりと生物界の頂点捕食者の権利を手放した。その日は興味の一つもない聖人の降臨祭で、いつもの如く若者はSNSとリアルで騒がしく盛り上がり、たまに逮捕される。いつもの毎日。視界を覆い隠すような霧でさえ彼らには一瞬、祝福に見えたのだろう。一部の人間にとっては真実、祝福だった。正確な数字は政府でさえ調べられなかったが、一瞬で世界人口の十分の一がとあるウイルスに感染した。正式名称はImmortal virus。略称Iウイルス。不死のウイルスと名付けられたそれは瞬く間に伝染、人類を崩壊させた。感染症状の初期段階は脱力感と発熱、三日目で精神に異常をきたし、十日目で――。

 ばさばさという羽音が聞こえて首を曲げると奇妙な純白の烏が電柱の上に降り立った。嘴の先まで白色に塗りつぶされた烏は、血走った赤い眼球をぎょろりと動かし僕を見る。餌だと思われたのだろうか。背負っていた黒い鉄の塊を改めて肩にかけ直す。ずしりとした重みが自らの生存を告げる。銃だ。突撃銃で半自動、それぐらいの知識しか僕にはないけれど確かに人類を殺戮した兵器の一つを持っていた。一年前まで信じられない情景だが、もはや銃は一般的なものになった。地面に落ちていた名前も定かでない拳銃を小突く。誰が持ってきたのか、誰が置いたのか定かではないが街の所々に落ちている。けどその意味はきっと誰もが理解しているのだ。足音が聞こえた。生き残るために戦え。僕は背中から銃を下ろし姿勢を低くする。

「お……あぁ……」

 くぐもったような声を上げ、駐車場をソイツは動いていた。右腕は半ばから無惨に千切れ、肺がある場所に空いた真ん丸い穴は水色の作業着では覆い隠せていない。霧もいくらか薄くなってきて、焦点の定まらない虚ろな瞳がよく見えた。Iウイルス感染者の成れの果て、生きる屍、ゾンビ様のご登場だ。僕は恐怖でごくりと唾を飲む。ゾンビの血が傷口に触れただけで僕は彼らの仲間入りだ。幾度となく繰り返してもやはり慣れない。ゾンビはゆらりゆらりと不規則に前に進む。足音が近づいてくる。ドクンドクンと心臓が早鐘を打つ。そして足音が十分に近づいたところで、僕は一気に立ち上がった。ゾンビが僕に気づいてこちらを向く。僕は銃身をバットのように両手で持って上に大きく振り上げる。ゾンビの腐った目と視線が交わる。微かな恐怖を振り切り銃を勢いよくゾンビの頭に振り下ろした。グシャリと鈍い感触が手に伝わる。ゾンビは頭から血を垂れ流し地面に倒れる。ゾンビの右手がピクリと動き立ち上がろうと手で地面を突く。僕はもう一度、銃身でゾンビの頭を殴り突ける。花の花弁を描くように土瀝青に血が溜まる。僕はもう生き残るために銃身で採掘でもするかのようにゾンビの頭を潰した。気づくとゾンビは動かなくなっていた。嫌な足音が三つ。今度は力のあるカツリカツリという音。僕は怖くなって近くにある柱の裏に急いで駆け込む。ゾンビなど大したことないのだ、人間に比べれば。

 彼ら三人は、この状況には不釣り合いな落ち着いた足取りで歩く。両端にいる人間は真っ黒なローブを着て肌を顔まで隠した大柄な人間。骨格的にたぶん男。真ん中の人間はよく分からない。身長は僕と同じぐらい。筋肉質で強そうなわけでもない。だというのに怖い。歯が震える。あの存在は危険なのだと本能が訴えかける。

「こんな僻地で優秀な人材なんて居るんですか虚飾様」

 一人の男が軽薄そうな声で中央の人物に聞く。

「……無礼だぞ。貴様」

 反対側の男が低く響く声で言う。中央の化け物はつまらなそうに一歩先に出る。

「人を探している」

 しわがれた男とも女とも判別がつかないノイズが混じったような声。

「背は私と同じぐらい。性別は男。瞳と髪は真っ黒で、何処かで気弱で臆病。右利きだ」

「強いんですか?」

 軽薄な男が楽しそうに笑う。

「実力は関係ない。探しているだけだ。邪魔するなら――殺す」

 急激に空気が重くなる。肺が潰れそうなほど空気が張り詰めた。両端の男たちは一歩だけ虚飾と呼ばれた存在から後ずさる。虚飾はつまらなそうに首を振った。

「無駄口を叩かず探せ。目撃証言はあるんだ。無駄足に終われば次だが――その必要はなくなった」

 目が合った。黒いフードに隠れて見えないはずなのに、ニヤリとした笑みが見えた。

「やぁ、こんにちは」

 はずんだ声で喋り、虚飾はフードを除ける。顔面が包帯に覆われていた。先程見たアルビノの烏と同じ真紅の眼球が僕の瞳を観察する。僕は震える手で黒い銃身を握った。

「探したよ。ずっとずっとずーと探していたんだ。君のこと」

 虚飾は熱のこもった声で、愛を囁くように語りながら柱に隠れた僕に近づく。分からない。誰だ。僕の知り合いなんて家族しか居ない。心臓が何度何度も生存の危機を告げる。視界が恐怖で霞んでくる。おかしくなりそう……。

 俺は――足を柱から出した。床を踏みしめて瞬きする暇も与えない速度で虚飾の前に躍り出る。銃口を突きつけて軽い引き金を引く。頭に風穴開けてハッピーエンドだ。どんな強者も不意打ちに敵わない。視界が暗転。肺が潰れる衝撃。俺の顔を覗き込みながら虚飾は熱い息を零した。

「愛してる――鏡音鷹也」

 俺は背筋が凍るような恐怖を感じた。反射的に倒れた状態のまま虚飾の顔面を右足で蹴りつける。虚飾は何食わぬ顔で俺の足を握っていた。泥の付いた靴に愛おしそうに頬ずりをする。

「八咫烏に入ろう。そして――楽園を探しに行こう。あと少しだけの辛抱さ」

「はっ! 嫌だね!」

 俺はがっしりと拘束された足を外そうと藻掻くが一切抜けられない。虚飾は小首を傾げる。

「覚えていないのか――まぁ、良い。すぐに思い出すから」

 虚飾は拳を握り、俺の顔面に振り下ろした。

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