第3話

「次に、305号室の田中さんですが」


 定期カンファレンスの席で、医師はそう言って担当看護師の報告を促した。

 

「せん妄による発作はほぼ治まっています。解毒治療の効果が出ているようです」


 ですが、と、看護師は続けた。


「数日前から、一日中鏡を見つめているようになりました。

 正確に言えば、鏡を見つめはじめたのが5日前、それが起きている間中ずっとになったのは、3日前からになります」


「鏡を見つめているだけ?」

「話しかけることもあるようです。ただ、誰かに見られていると気づくと黙ってしまいます」


 医師の問いに答えて看護師は言った。

 医師は報告書類に目を通し、次に視線を心理療法士に向けた。


「昨日、田中さんの催眠療法の日だったよね」

「はい。前回は緊張と不安が非常に強く催眠状態には至りませんでしたが、今回は催眠状態での対話まで持ち込めました」


 その結果、患者がこの病院を絶海の孤島にあるゲストハウスで、嵐のせいで閉じ込められたと信じていること、鏡に映った自分を双子の弟だと思い込んでいること、その弟と非常に親密な関係であると考えているらしいことが判明したと、心理療法士は報告した。


「非常に親密な関係…って、恋人ってこと?」

「通俗的な言い方をすれば、そうなると思います」


 心理療法士の答えに、医師は「『恋人』に医学的な定義はないからな」と苦笑したが、その笑いはすぐに消え、深刻な表情に変わった。


「双子の弟で恋人……か。これは長くかかりそうだな」


 独り言のように呟いてから、医師は当面の治療方針をスタッフに伝えた。




 カンファレンスを終えて、看護師は自分が担当する患者たちの部屋を順に回って様子を確認した。

 305号室の田中凛子は、相変わらず鏡を見つめたままだ。


 田中凛子は6週間前に覚醒剤の使用で逮捕されたが、逮捕時に中毒症状が酷かったことと、裏組織の男たちに薬を強制されていたという周囲の証言もあって不起訴処分となり、この病院の精神科に措置入院となった。


 凛子は幼いころから父親に虐待され、母親の自殺後は施設に預けられた。

 中学を卒業するとすぐに改心を装った父親が施設から引き取り、年齢を偽って風俗店で働かせるようになった。


 その後、風俗店の店員と恋仲になったが、恋人だと思っていたのは凛子のほうだけで、店員は自分の借金を凛子に肩代わりさせるのが目的で彼女に近づいたのだ。

 店員が金を借りていたのはいわゆる闇金で、闇金の男たちは凛子に借金返済のための売春を強要した。

 凛子がそれをいやがると、彼らは凛子にむりやり覚醒剤を打ち、客を取らせ続けた。


 それは、彼女が覚醒剤取締法違反で逮捕されるまで続いた。




 室内から明るい笑い声が聞こえ、看護師はカルテから室内に視線を戻した。


 壁に貼られたフィルム製の鏡に触れんばかりに寄り添い、楽しそうに喋っている凛子の姿が目に映る。


 鏡に映った自分を双子の弟だと、そしてその弟を恋人だと思い込んでいるという心理療法士の報告を、看護師は信じられない思いで聞いていた。

 これだけ男たちに虐げられ、男たちによって人生を狂わされたというのに、凛子がなぜまだ恋人など欲しがるのか、看護師には理解できなかったのだ。


 それでも、鏡を見つめるようになってから、凛子の症状がかなり落ち着いたのは事実だ。

 食欲が回復し、夜きちんと眠れるようになり、時折こうして楽し気に笑いさえする。


 だがそれは、覚醒剤中毒による症状が軽減しただけだ。




「このまま、ずっと嵐が続けばいいのにね」


 わずかに開けたドアの隙間から、凛子の声がかすかに聞こえた。


「……私も。翼と一緒にいられて、すっごく幸せ……」


 担当看護師は、音を立てずに静かにドアを閉めた。

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嵐の中で BISMARC @bismarc

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