誠の彼女

 1度目の転職は自分でも驚くほど早かった。

 高校を卒業してから、美容師になりたくて専門学校に通った。2年間の努力の末、大手会社が経営する美容室に就職が決まった。しかし、配属先に決まっていた店舗の売上が低迷し、人を入れる余裕がなくなったということで急遽、親会社の経理部に配属となった。当初の話では一時的な対応とのことだったが、移動がなく2年が経った。専門学校の2年間の努力を踏みにじられたという感情を、どこにもぶつけることができずに退職届を提出した。自分が辞めることを悟っていたかのようなスムーズな退職手続きは、さらに心をえぐった。

 就職が決まった時、父親と母親はものすごく喜んでくれたし、息子の成功で自分たちの子育ての成功を実感していたと思う。人は自分が親から与えてもらった愛を、同じように自分の子供へ与えようとする。そして、それが正しかったのか間違っていたのかを、子供の出した成果によって実感する。ただ、その愛が本物であるか否かの判断は難しい。少なくとも、自分がもらった愛は間違っていないと思う。

 今年の7月から就職をした「ロンバルジャパン株式会社」では、美容師という概念からとことん離れるために、前職と同じく経理職に就いた。前の会社よりは規模は小さいものの、今勢いのあるアパレル卸売会社だ。ボーナスもそこそこで、お金には将来的にも困らなそうなのが決め手だった。前職をたった2年で辞めた自分を採用してくれたことには、非常に感謝している。

 幼い頃から、特に大きな夢もなく目の前の出来事に流されながら生きてきた僕にも、一つだけ「希望」がある。それは恋人の英理の存在だ。彼女は僕の1個下で、学校の文化祭をきっかけに猛アタックして付き合った。その当時、彼氏がいたことは後になって知ったが、自分の彼女になったのなら浮気がスタートでも関係ない。自分さえ良ければそれで良い。僕は典型的な男で、酒、たばこ、女、全部やる。男たるもの、これらを持ち合わせていることがステータスだ、という環境で育ってきた。学生時代は渋谷や銀座の飲み屋街に繰り出しては女の子をナンパし、遊び惚けていた。ただ、それは今も正直変わらない。仕事が早く終われば、昔の仲間たちと夜の街に繰り出す。同棲していないから、バレることもない。こまめに連絡だけは返す。英理を大事にしたいとは思っているが、傍にある大切なものを自分の欲よりも優先できるほど、僕は大人じゃない。一体、いつになったら大人になれるのだろうか。


 今日は英理と休日が被ったので出かける約束をしていた。新宿に今話題のジェラート屋があるということで、歌舞伎町側の地上出口で待ち合わせをしたが、こんな適当な待ち合わせじゃ会えるはずがない。人混みと都会が生み出す雑音がかまびすしい。最初に出る出口を間違えると雪崩式なだれしきに予定が狂っていく。迷っていると”着いたよー”とのメール。あー、また寝坊だと思われる。結果、待ち合わせ時間に10分ほど遅れた。

「起きたばっかりでしょ、顔腫れてるもん」

「昨日、しょっぱいもの食べ過ぎて腫れているだけだよ」

 英理はふーんという顔をして僕の顔を下から覗き込んだ。

可愛いという一言で片づけてしまうのがもったいないくらいの表情。愛嬌。

選ばれし容姿の持ち主だと改めて感じた。

「目ヤニ、付いてる」

 あれ、顔洗ったはずなんだけどな。

「わざと付けてきた」

「つまんない」

 たわいもない会話から手をつないでジェラート屋へと向かった。

 付けている香水の香りがいつもと違うのが少し気になった。

 お店には十組ほどの行列ができていた。オープンしたのは二年ほど前にも拘わらず、この歌舞伎町という町に深く根を張っている。アイスの見た目は、女の子が好みそうな可愛い系だが、味は甘ったるいものが少ないらしい。どれもさっぱりとした印象を与える口当たりであることが、人気の理由とのことである。英理がレモンにしたので、僕はシンプルなバニラにした。噂通り、甘さ控えめさっぱり感強めだ。

「なんか、家系ラーメンばかり食べてから、そば食った感じだね」

「例え下手なの?」

「悪くはないと思うけどな」

英理は僕よりも早く食べ終えた。手が小さいからスプーンが自分のよりも大きく見える。だから食べるの早かったのか。女の子は、小さければ小さいほど可愛い。守りたくなるような愛嬌を兼ね備えている子に、僕は弱い。小さい手を見るたびに、手放したくないと心が静かにつぶやく。ゴミを捨てに行き、戻ってきた英理に話しかけようとしたその瞬間、英理の表情が曇った。視線は店内の客席に向けられている。その視線の先に僕も目を向けると、そこには片側の口角だけを上げながら、英理に向かって笑顔で手を振る男の姿があった。


 どこかで見たことのある顔だった。


 英理が専門二年目のとある雨の日、都内の居酒屋でアルバイトをしていた英理を迎えに行った。英理がバイト前に傘を忘れたといっていたので、サプライズで傘を届けに行ったのだ。迎えに行く頃には、傘なしではずぶ濡れになってしまうくらいの雨量で、我ながら良い彼氏だなと自賛した。少し電車が遅れてしまい、退勤時間を数分過ぎて店の前に到着すると、そこには英理が知らない男と向き合い、立ち話をしている姿があった。急激に胸が締め付けられ、全身の血流が早くなるのを感じた。怒りではなく絶望が頭を埋め尽くした。パニックに近い状態になった僕は、一旦裏道へと身を隠し、呼吸を整えた。意を決してもう一度英理の方を見てみると、まだ二人は話している。しかし次の瞬間、英理が男を両手で突き放し、駅の方へ走り去っていった。男はびっくりした顔で立ち尽くしていたが、僕も同じ状態だった。胸の鼓動はさらに高まり、身体は金縛りにあったかのように動かなかった。その時なぜ、英理を追いかけることができなかったのかは、今になってもわからない。

 数時間後、英理から連絡がきた。文面は普段と何も変哲がない。ただ僕の方は、返事を返すのにかなり時間がかかった。頭の中で何度も二人の話している場面がフラッシュバックし、何も考えられなくなる。何とか携帯見れるくらいに回復したものの、気を抜けばボーっとしてしまう。若干の吐き気や気怠さが残っていた。一体、あの男は誰だったのだろう。話をしている時の距離感がある程度の親しさを表していた気がする。英理は、僕に何かを隠している。僕は、全てを見せているのに。

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