輪郭

 時間が秒で過ぎる、という言葉をたまに耳にする。時間は1秒ごとに進んでいるのだから当たり前だろ、と人知れぬ会話にツッコミを入れるのが癖になっていたが、このひとときだけは間違いなく"時間が秒で過ぎた"。

「そういえば、この前行ったホテルで盗難事件があったらしいよ」

「え、まじ?」

「お風呂に入っている間に部屋に入ったらしい。ほら、あそこ壁薄かったじゃん?だから、音でシャワー浴びてるとかがわかるのよ。」

 1週間ほど前、渋谷のラブホ街で1番安いホテルに行った。お金がなかったわけではなく、週末でどこも空いてなかったのだ。おまけに壁が薄いから隣の音が耳障りで、全然気が入りきらなかった。

「いい迷惑だったよ。あの薄さ」

「新鮮でよかったけどね、私は」

 あれを新鮮と感じられるポジティブさは持っていない。人は自分が持っていないものを持っている人に惹かれるらしい。

「家着いたわ」

「15分早いな~」

「ありがとう。またかける。いつでも出る準備しておいてね」

「うん。わかった。待ってるよ。それじゃあ、―――」

 俺は、電話を発明したアレキサンダー・グラハムに感謝しなければならない。でもそれなら、携帯電話を発明したマーティン・クーパーか。いや、電話をしてくれた英理えりに感謝すべきか。心の奥底にこべり付いた日常のストレスを甘い声で丁寧に磨いてくれる。今日の出来事という無機質で無香料な洗剤を使い、すべてを浄化してくれた。これが本物の「たわいもない会話」である。

 そして、最後に英理は言った。


「それじゃあ、奥さんによろしくね」


 玄関まで漂う魚臭で晩御飯がわかる。最近は秋刀魚さんまが値上がりしていて全然食べれてないから、秋刀魚なら最高だな。って言っても胃に隙間はない。廊下からリビングへ行くと、テレビ台の隣の間接照明がこちらを照らしてくれた。ただ、買ったばかりの観葉植物に見慣れず、自分の家に違和感を持つ。

「おかえり、遅かったね」

「ただいま、玄関まで魚の匂いがすごいよ」

洗面所付近では、微かな固形石鹸から漂う香りを感じることができた。

「仕方ないでしょ、すずきなんだもん」

「そりゃあ臭うな。てか、飯食ってきた」

「待って、連絡入れる約束は?」

寝室に入ろうとしていた愛歩が驚いた顔で振り返る。

「携帯の充電が切れてたんだよ、ごめん」

「...次はないよ」

声のトーンを落として愛歩あゆみは言った。フードに収まる綺麗な卵型の輪郭は、何度見ても飽きない。しかし、フードを被り直した動作は本当に次はないのだろうと思わせる。数か月前から愛歩の綺麗な輪郭とは裏腹に、僕らの関係性はぼやけ始めていた。そしてその原因は、紛れもなく「俺」だった。

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