今世は酒が飲めない

Akira

嘘と甘い声

 18時。「お疲れ様で~す」の挨拶が次々と鼓膜に振動を与える。その度に「俺はまだ帰れねぇから!!」と鼓膜の内側からレスポンスを返す。誰にも届くはずのない怒り交じりの叫びが、耳と鼻の間で行き場を無くしている。

 人は思っていることと逆のことをよく口にする。嘘と言ってしまえばそれまでだが、そうではないと俺は思う。時、場所、場面、いわゆるTPOに応じて言葉を選択するのが、「大人」というものだ。大体の女は友人に、「そいつと絶対別れた方がいいよ!」と言われたら、「そうだよねぇ...」と口では言いつつも、

”うるせぇぇぇ!てめーに何がわかんだ!?”

と思っている。これが世の常なのだ。

そして気付くと俺も「お疲れ様です!」と、本心とは裏腹な挨拶を、オフィスを後にする人たちに返していた。さぁ今日は何時まで残業をしようか。


 ロンバルジャパン株式会社で働き始めてから今年で8年目になる。外資のアパレルブランドで、日本の中でもなかなかの老舗だ。担当部門は経理で役職なし。経理という仕事は、月次業務を終えると比較的暇になり、月末は次月に備えての準備期間的なところがあるため、そこまで大変な部署ではない。しかし、俺は違う。毎月、頭からケツまで忙しい。うちの会社は歴を積むごとに、部門以外のことをやらすようになる社風がある。その餌食となっていく数多の先輩をこの目で見てきたため覚悟はしていたが、それにしても多忙であった。俺は総務の仕事を一部任されていて、社内の人間のスケジュールをくまなく把握していなければならないし、会社で何かあると他人事ではいられない立場になった。責任感も以前よりまし、自分の仕事に緊張感を持つようになったのは良いことである反面、プレッシャーは容赦なく襲い掛かってくる。俺にとって、経理業務をこなしつつ総務業務も行うのは、常に崖っぷちでジャンプをしているのと同じだ。いつ崩れるかわからない。だから定時の18時で上がれることはほとんどないし、21時まで働くのが当たり前。おまけに部長は「まだやれるか?」が口癖の体育会系で、気を休める暇もない。横を見ると、部長の開けっ放しのロッカーからプロテインの袋がこちらを覗いている。仕事は筋トレではない。高橋英明たかはしひであき。あの人は事務(ジム)職を完全に履き違えてしまっている。

 21時を回った時、ふと気が付くとオフィスには部長と自分、そして今年の8月に中途入社してきた新人の3人になっていた。見渡した時に、部長のデスクにある書類の量が一番多いことに気がついた。山と表現するにふさわしい。書類の量が会社での立場を示しているかのようだ。新人と自分の量がさほど変わらず、ややしゃくに障った。ペーパーレス化推進運動をしているということにでもしておこう。

 そんなことを思いながら、仕事を終えようとしていると鼓膜が雑音で揺れた。

「おい、二人とも終わりそうか?ちょうどいいから、行くぞ」

 この人はちょうどいいの意味も履き違えている気がする。

 そして俺は酒が飲めない。


 「半蔵」はここら辺では有名な大衆居酒屋だ。30組は座れる席数があるため、新年会と忘年会、歓迎会や決起集会、事あるごとに世話となっている。もちろん、幹事は総務の仕事だ。店内は古びた木目のテーブルとイスで統一されていて、壁面には昭和の商店街をイメージした壁紙が貼られており、昭和ならでわの賑やかさが表現されている。視界に様々な色が飛び交うが、嫌な景色ではなく、むしろ心地がいい。レジの隣にはオブジェとして、使えない公衆電話がある。「余裕のよっちゃんいか」というメニューには寒気を感じつつも、平成生まれの自分が昭和を感じてしまうくらいなのだから、部長はより感じているに違いない。

 「生3つと軟骨のから揚げ、エイヒレ、ポテトサラダ、それとー、余裕のよっちゃんいか」

 新人が店員を呼んでくれ、ささっと注文を済ませた。さらに、案内された席にハンガーが2つしかなかったので、1つ頼んでもらってくれた。部長のコートをかけながら、俺のコートも受け取り、一番手前に自分のコートをかけた。優秀だな、と反射的に感じてしまう。入ったばかりの自分にはこんなことできなかった。

 大曾根誠おおそねまこと。中途入社の26歳。口数が少なく、仕事を淡々たんたんとこなす。経理マンの標本を作るならこいつを使えばそれなりのものができあがるだろう、といった外見だ。

 ビールが届いて乾杯をした後、部長に先陣を切られるとこの後に響くため、大曾根誠に話を振った。

「誠は前職も経理だったんだよね?」

他愛もない質問過ぎた。

「そうです。経費精算や支払処理をしてたくらいですけど。」

「そうかー、そうなると大曾根には早めに新しい業務を任せたいな。うちに来てまた同じことやっていると、仕事内容に飽き飽きするだろ。卓也たくや古川ふるかわに言っとけ。どんどん新しいことやらせろって」

「そうですね。若手には早く成長してもらいたいですもんね」

「ありがとうございます」

古川は俺の同期で誠の教育係だ。ものすごく女にだらしないが、性根が優しさに溢れており、ほとんど人に嫌われない。新人時代には毎日一緒にいたし、社会人として経験することの大半は古川とやった。人に厳しくできない性格だから教育係に向いているかは微妙だが、誠との相性は意外と良いらしい。オフィスでも二人で雑談しているところをよく見かける。

「大曾根、こいつは真面目そうに見えてチャラいから気をつけろ」

部長が俺に肩を組みながら言った。

「高橋さん!いきなり余計な事言わないでくださいよ!」

「いいだろ、こういうのが人間関係を良好にしていくのに必要なんだ。悪名は無名に勝るとも言うしな」

いや、それならもっとインパクトのある悪名にしろよ。ちょっと印象下げるレベルじゃないか。

「えー、意外ですね!仕事一筋って感じで、そんな風には見えないです。人間見た目じゃないですね。」

「いや誠、鵜呑みにしすぎだから」

「でも、卓也さんって彼女さんいるんですよね?古川さんから聞きましたよ。お奇麗であいつにはもったいないって言ってました。」

あいつ…俺のいないところで…。

「もったいないってところは引っ掛かるけど、まぁいるね。少し遊んでたのはずいぶんと前の話だよ。」

「よし!じゃあさっそく、卓也の女ったらしエピソード1話目、もらっとくか!!」

「部長!話の流れわかってますか!?」

それから小1時間、俺の昔の彼女との話で盛り上がった。誠は話してみると結構聞き上手で、敗北感を感じた。会話は相手が話しやすい環境を作ったほうが勝ちである。余計なことまでぺらぺらと話してしまった俺は大敗だ。一杯しか飲んでいないが、酒のせいということにしておくか…。明日も仕事なので、今宵は23時を過ぎたところでお開きとなった。


 帰りが0時近くになるのはもう慣れているし、飲みでこの時間になるほうがマシだ。どちらにせよこの時間に家に帰る必要性は感じないが。木造のアパートだから洗濯機も回せないし、湯舟を張る時間もゆっくりテレビを見る時間もない。寝るだけだ。そんな虚しさを感じると必ず”あの子の声”が聴きたくなる。たいして酔ってもいないのに、最寄り駅から家までの15分で電話をかけたくなる。今日も決まったアイコンをタップし、「出てくれ」と願う。人間にとって聴覚から得られる情報はかなり重要だ。耳から入ってくる音色で全身の血圧も変わる。高揚し、直後には脱力してしまうほどの安心感。様々なものを経験すると自分の欲望がわかるようになる。何を求めているのか。何が自分を一番満足させるのか。直感が無意識のうちにそれを手に取る。気づいた時にはそれを選んでいる。そして強く思う。


 「待ってたよ」


 あー、これだ。




 

 

 

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