陽炎-3
廃墟群、と呼ばれる遺構の数々は、取り壊しも建て直しも決まらないまま、もう何十年と放置されている。廃墟を更地にして新しく街を形成する予算の捻出をどうするか、という経済的な理由が大きいものの、もっと現実的な理由として、廃墟群には孤児や無宿者が多く住み着き、彼らを福祉に繋げないことには手を着けられないことが挙げられる。路上で袖を引くことで客を取る小児売春の温床は、特殊な性癖を持つ人々に搾取の機会を与えてしまっている。被害者である孤児を中心に、彼らを福祉に繋げる予算が必要となり、実態調査のために何度かケースワーカーが派遣されたものの、彼らは野生の獣のように
街だけでなく、国の暗部と呼んでもいい無法地帯がフユトの出身なのだとセイタが知ったのは、別の日の何気ない雑談でのことだった。
「言ってなかったっけ?」
飼い主不在のせいか、ほぼ連日のようにセイタを呼び出すフユトがあっけらかんと言うので、
「聞いてないっス」
セイタはぽかんとしながら緩く首を振った。
戦後の今、国民は持てる者と持たざる者に分断されて久しい。富裕層から中産階級に生まれつかない限り、人並みの生活を生涯に渡って送れる保証がないのだ。
セイタの実家は中産階級の中でも下の下ではあったけれど、姉と妹を含めた三人の義務教育を終えられるくらいに収入はあったので、恵まれた環境を飛び出してしまったセイタの親不孝と言ったらない。しかも自身は高等教育中退だ。生き方は多様と言えど、福祉に守られた暮らしができるかどうかは微妙な立ち位置にいる。
「……俺、めちゃくちゃ贅沢モンじゃないスか」
複雑な顔をして落ち込むセイタに、
「
フユトは気にした風もなく言ってのける。
「それはそうですけど」
「持てなかったものを手放しに欲しがるほうが贅沢なんだよ」
それでも気にするセイタを見ることなく、フユトは助手席のシートを深く倒して、ダッシュボードに土足の踵を載せた。
仕事に付き合ってもらった礼だと言って、今度はセイタの仕事にフユトが付き合っている。
家主の帰宅を待ち伏せて玄関先で強襲し、死なない程度に痛めつけて欲しいという、ハウンドが受けるにしては半端な依頼だった。セイタは経験が浅いから、他のハウンドは誰も受けないような中身の依頼が回ってくる。一家惨殺や死体損壊をやってのけるフユトのことだから、案の定、話した傍から失笑された。
依頼者は生真面目で、色恋沙汰には縁遠く見えるタイプの女だった。単身赴任中の上司に騙されて肉体関係まで持ったあと、相手が既婚者で、しかも二人の子持ち、親戚関係には愛妻家で子煩悩な良き夫として認知されていると知り、どこかがプツンと切れてしまったらしい。女の復讐は恐ろしいのだ。性格が真面目であればあるほど、思い詰めた反動が大きい。
「フユトさんは幸せなんスか」
家主の帰宅を待つだけのジリジリとした時間で、何て問答をしているのだろうと思いつつ、セイタはフユトに尋ねてみる。
「さぁな、不幸だと思ってねェからいいんじゃね」
フユトの答えはどこまでもドライだ。
もちろん、セイタはそれがフユトの本音だとは思っていない。飼い主である総帥とフユトが二人きりのとき、どんな顔で、どんな声でやり取りするのか想像もできないけれど、雑談を邪魔されて怒り心頭に発するくらいなのだから、きっとベタ惚れなのだろうことは察するに余りある。
「……何だよ、その目」
フユトが気色悪そうに告げて、セイタは我に返った。どうやらずいぶん、湿度の高い視線を向けていたらしい。
「変な意味はないっスよ」
咄嗟に弁解すると、
「ま、お前は俺に勝てないもんな」
宣うフユトがからからと笑った。
褐色の髪の鬼についての噂を纏めると、容易に近づくことも憚られるような血腥い話しか聞こえてこない。曰く、これまで九人の同業者を殺害、または傷害致死させたうち、半分はフユトが丸腰の状態だったとか。曰く、丸腰の状態から死なせた半分の更に半分は、急所を酷く殴られ蹴られし続けたことによる内臓破裂が死因だったとか。曰く、三人四人程度なら襲撃されても無傷で立ち回れるとか。
「誰かと違って靴先に鉛仕込んでねェから内臓破裂は無理」
というのがフユトの言い分だ。その誰かというのが誰なのかと思い至ったとき、セイタは魔王のような雰囲気の総帥の姿を思い出して、更にぞっとしたのだけれど。
同業殺しの際も、こんな顔をしていたのだろうか。凶悪さが滲む顔に返り血の飛沫を浴びるフユトの凄惨さは、言葉もなく見惚れてしまうほどだった。度を越した物事に出会すと、人は咄嗟に感情が沸いて来ないものなのかも知れない。
帰宅した家主を背後から襲撃したのはセイタだった。小綺麗にリノベーションされた中古マンション三階にある一室の玄関先で、後頭部をバールで軽く殴りつけて背中を蹴り倒し、顔や身体に傷が残る程度の暴行を加えて退散しようと思っていたのに、だ。気づけば、不倫男は血溜まりに沈み、虫の息だった。放置すれば確実に死ぬだろう状態にある。
「ちょっ……」
あまりのことに絶句していたセイタは、フユトが被害者の頭を遠慮なく掴み上げたのを見て、さっと青ざめる。殺すなという依頼なのに、これでは未遂で終わらない。
「ストップストップ、死んじゃいます!」
セイタの悲痛な声に、フユトが愉しみを止めるなと言わんばかりの殺気を伴って、胡乱に振り向いた。
「死んでも構わねェだろ」
フユトの問いに、セイタは強く首を振って、
「ちょっと痛めつけるだけの仕事なんですから、勝手に方向性変えないで下さい!」
泣きそうになりながら止める。
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