陽炎-4
この人は常軌を逸している、と改めて思った。初対面のときに振り撒いていた殺気もさることながら、他人の顔面を激しく殴りつけた際の血飛沫を頬に浴びたフユトの姿は壮絶だ。野良の獣なんて可愛いものじゃない。悪鬼羅刹が実在するなら、きっとこんな面相をしているに違いないと確信できる。フルスロットルでアドレナリンを滾らせ、瞳孔が開ききった、愉悦の顔。無邪気に虫の首を刎ねて遊ぶ子どもが、あどけなさはそのままに、邪悪に染まったような顔。
「莫迦は死んでも懲りねェよ」
竦むセイタの目の前で、フユトはにんまり哂いながら、脱力しきった男の顔面に膝を入れた。折れてはいけない箇所の骨が折れたのかも知れない。嫌な音がした。
違う。先日の仕事の礼だなんて嘘だ。
セイタはようやく気づいたが、男はもう、か細く続けていた呼吸さえ止めていた。
この人は暇に託けて、寂しさを紛らわせようとして、血湧き肉躍る現場に臨場しただけだ。持て余す全てを発散させるためだけに、人の獲物を横取りした挙句、依頼さえ失敗に終わらせて。
遙か高みから愚民を見下ろす魔王が──絶望を知り尽くす暗澹とした瞳の総帥が、セイタに死刑を宣告する瞬間の幻覚に、ぞくっと震える。頭痛を伴う吐き気がする。
「……それで?」
と、フユトが聞いた。セイタに向き直った顔は、怖いくらいに、遊びに夢中の子どものような笑みを浮かべている。
「俺に何か文句、ある?」
自分で生唾を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
「ない、です……」
紡いだ声は情けなくなるほど掠れている。同じ暴力が自分に向けられるかも知れないと思うと、セイタの指先は体温を失い、小刻みに震え出す。
「だろうな」
死に直面して本能的に怯えるセイタに、フユトは得意げに笑った。
廃墟群のような倫理もモラルもない無法地帯で育ったから、フユトはこうなってしまったのだろうか。片親で育った子どもでさえ、もう少し真面な気がする。セイタが好む暴力なんて、所詮は暗黙のルールの上に成り立つ格闘技のようなものなのだと、フユトは如実に教える。相手が鼻を折ろうが歯を砕こうが、輪郭が変わるくらい顔を腫らそうが、各所からどれほど出血していようが、悪鬼の視界には何も映っていないかのような容赦ない暴力が、フユトにとっての正しい暴力なのだ。
運転席に深く座ってハンドルに顔を伏せたまま、セイタは車を出せなかった。助手席の悪魔は何も言わない。勝手にしろ、とでも思っているのかも知れない。
「……俺が殺されるじゃないスか」
ようやく零した声は、まだ震えて掠れていた。
「あいつには俺が勝手にやったって言っとく」
フユトの興奮は既に醒めているらしい。淡々として、どこか呆れた口調で答える。
「言ってもらわなきゃ困ります」
言って、セイタは徐に顔を上げ、
「ミンチになって死ぬなんて最悪だ……」
総帥による死刑宣告の末路を嘆く。
その末路のことだって、同業者が囁く噂の域を出ないものの、総帥その人が元ハウンドで元ハイエナだった事実を考慮すれば、強ち嘘にも聞こえないから嫌になる。とんでもない世界に足を踏み入れてしまったと、己の浅はかさを後悔しても遅い。
「フユトさんだってあんまりじゃないスか、俺が受けた依頼なのに横取りして」
ダン、とハンドルを叩いて、セイタはやっと憤る。随分と遅れてやって来た怒りが、沸々と腹の底を焦がし始める。
「悪かったよ」
挑戦的な声に恫喝されるかと思いきや、素直に詫びるフユトが意外で、セイタの怒りは一瞬、凪いだ。
「けど、久しぶりに愉しめたわ」
セイタが振り向くと、フユトの横顔にはぞっとするような微笑が浮かんでいる。殺戮をこそ糧とする獣の顔だ。倫理もモラルもない、本能のみの獰猛な気配がする。
嗚呼、この人は、自分が生き残るためなら手段を問わないのだ。半径一メートル圏内の最愛がいれば、他がどうなろうと意に介さない。彼は本当に、人じゃない。
ごくり、と喉が鳴った。
セイタが知っているフユトはフェイクなのだ。悪餓鬼のような顔で笑い、軽口を叩き、面倒見のいい兄貴分だったのに。ハウンドでありながらお人好しの一面を持ち、根っこは優しい人なのだろうと思っていたのに。暴力に身を晒すフユトこそが彼の本性で、本分だ。他人がどうなろうと知ったこっちゃない、最上級のエゴイスト。
店に行くたび、ぽつぽつと話すようになったアゲハへ、セイタは愚痴を零すように経緯を伝えた。憤懣やる方ないセイタの様子に、アゲハは小首を傾げながら話を聞いていた。
「フユトさんは極端ですからね」
仕事の横取り被害に同情するでなく、フユトをフォローするような言い回しに、セイタはむかっ腹を立てて睨む。何年も前のこととはいえ、深い仲になっていたから肩を持つのだろうと凄むつもりで。
しかし、アゲハに動じた様子はなかった。ハウンド連中を相手に接客しているから、多少の脅しは通用しないのかも知れない。
「本人がいないから言えますけどね」
と、アゲハは前置いて、
「あの人は弱いから強いんです」
謎かけのようなことを言う。
「なんスか、それ」
セイタが不機嫌に返すと、アゲハは困ったように笑った。考えを纏めるときのバーテンダーの癖だ。
「こう言うと、フユトさんはすごく嫌がるんですけど、自分が弱いと知ってるから強く在ろうとするというか……」
そこまで口にして、アゲハは少しだけ唸り、
「純粋に、死に物狂いで生きてるんです」
どこか寂しげな顔で、口角を微かに持ち上げた。
バーテンダーの言いたいことは、何だかわかる気がする。セイタは勢いを失って、背の高いグラスに半分ほど残っているハイボールを少しだけ舐めた。
廃墟群で生きるのがどんなに大変なことか、セイタは見聞きしたことがないからわからない。でも、きっと、今日という一日を明日に繋ごうとするだけで疲労困憊し、ゆっくり眠れもしないのに朝を迎える日々が永遠のように続く単調を、脇目も振らずにこなして来たのだろうと思う。他人を気にしながら生きる余裕なんてなく、我武者羅に、只管に、自分の命を繋ぐことだけで精一杯になりながら。衣食住も教育も家族も、生まれたときから当たり前のように目の前にあったセイタには耐えられないような苦渋と辛酸を舐め続けた結果、今のフユトが完成したのだと思うと、何と言っていいのかわからなくなるけれど。
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