陽炎

陽炎-1

 十一月初旬、日曜日。

 その日の最高気温は、秋分を超えてからは珍しく、夏日を観測した。衣更えも済んだ時分の異様な暑さに、人々は仕舞い損ねた夏物の服を着て街を歩く。

 灰白色の雲を一面に掃いた空の僅かな切れ間から、強い日差しが照り付ける。からっとした大気に風はなく、乾いた暑さが地上に淀む。

 そんな日に真っ黒な繋ぎの作業服を着て、他人の家の浴室で汗みずくになりながら、フユトはまた一本の鋸の歯を毀した。小さく舌打ちして鋸を捨て、新たな鋸を手に取って、人間の大腿部の付け根に当て、引く。

 血と内臓の腥い臭いが外に漏れないよう、目張りした上に換気扇も回せないから、作業をする身体から汗が噴き出るのは仕方ない。こめかみを伝って顎から滴る個人情報入りの体液なぞに構っていられず、鋸を引いては戻し、戻しては引き、大腿部を胴体から切り離す。

 頭と四肢、胴体の切断を始めて、既に三時間は経っていた。

っつ……」

 鋸を牛刀に持ち替えて、フユトはこめかみの汗を肩でぞんざいに拭う。切り離した左足の膝の部分を牛刀で叩き切る。死した人間の皮膚などブヨブヨしたゴム膜に似たようなもので、流れ出す血がないぶん視界は綺麗だ。

 力がいる作業だから疲れが溜まっている。基本的に骨の節々を狙って解体するので、中腰の姿勢が続く影響が大きいだろう。

 残りは右足一本を切り離し、膝で二つに分けるだけだ。

 殺したことがバレないように、と後処理を頼む依頼者の心理はわかる。わかるが、もう少しだけ金を積めば、臓器売買のために人体を解体する専門家にも頼めたのだ。売った臓器の総額の三割は依頼者の取り分になるのに変なところでケチりやがって、と内心で毒づきつつ、こういう仕事で背筋を興奮に粟立てる自分がいるのだから、本当に救えない。

「……あー、もう」

 取り敢えず右足を胴体から離して切り分け、一段落がついたところで、フユトは脱衣室と浴室の僅かな段差に腰掛け、天井を仰いだ。

「すっげぇヤリてェ……」

 現場で呟く独り言の常套句を吐き出す。

 願っても縋っても無視されて、延々と愉悦に攻め立てられながら、気が狂れそうな境地で犯されたい。絶頂を希うフユトを哀れみもなく見下ろす冷徹な視線に背筋を震わせながら、度が過ぎる興奮で萎えてしまったそこを、張り詰める睾丸もろとも、加減なく踏み潰されたい。

 ぞくっと身体を震わせ、閉じていた目を開ける。後ろ暗い想像は脇に追いやり、立ち上がりざま、上向きで下着に押し込めてある陰茎のポジションだけ直しつつ、これから黒いゴミ袋に詰めなければならない遺骸のパーツを見下ろして、

「……めんどくせ」

 本音を吐露した。

 安くないどころか、高額の金をもらっている以上、頼まれたことは最後までやる。やるけれど、大きなゴミ袋三つ分にもなった廃棄物を浴室に放置したのは、偏に依頼者への八つ当たりだ。巨額の賄賂が動いているからフユトは任意同行さえ掛けられないし、依頼者に至っては当日のアリバイは元より、依頼した痕跡さえ見つからないだろうから、事件が露見したところで掛かる火の粉もないのだけれど。

 引退した某やり手代議士の娘を名乗る人物から、父を殺して欲しいと頼まれた。現役時代に利権関係の袖の下をしこたま貯め込んでいたのだから、相続する資産も莫大だろうに、あろうことか、親子関係はギスギスしていたらしい。公設私設を問わず、秘書や事務員の横面を汚い金の札束で張り、格下と看做した人間には尊大に振る舞い、票と金の匂いがする人間には揉み手をしてまで媚びへつらう。そんな父親から譲り受けるものなどないのだそうだ。内閣閣僚を円満辞任する際に妻と離婚し、何人か囲っていた愛人の一人を後妻に招いた男を娘はとうに見限っていた。離婚された母親について行き、母親の姓を名乗るようになったのも、この世で最も嫌いな実父との関係を断ち切りたかったからだという。

 政界引退後、老人の介護なんてしていられないと年若い後妻に別れを告げられ、広大な家に一人で暮らす男は生き別れた娘を呼び戻そうとしたらしく、それが依頼の決め手となった。「あんな男を老衰で死なせるなんて贅沢はさせない」と憎々しげに呟いた壮年期の娘の顔は、どんな般若面より鬼だった。

「何が哀しくて暑い中ヒト一人バラして、萎びたチンコ見ながら勃たなきゃなんねーんだよってな」

 そう宣って琥珀色のアルコールをストレートで煽るフユトに、セイタは果てしなく冷めた視線を送る。そもそも現場で興奮したとして、勃起するかどうかは個人の性癖なので、全く同意しかねている。

「そこまで嫌われる人生なんか、俺は嫌っスけどね」

 話題をさり気なく依頼者に逸らして明答は避けながら、ライムが強めのジントニックを含んだ。

 『塩の街』という名前の、デートクラブを兼ねた隠れ家的なバーのカウンターで交わす会話じゃない。思いながらも、二十歳そこそこだろうバーテンダーは中央の流し場でグラスを洗っているところで、入り口から見れば店内奥に当たるカウンター席の端の会話の下品な内容なんて、気にも留めていない。

 十一月初旬の月曜。深夜に差し掛かる店内の客は二人しかおらず、微かに流れる有線放送の音楽より、会話のほうが際立つように感じるくらい静かだ。

「言っとくけど、俺は枯れ専じゃねェからな」

「……フユトさんの性癖なんかどうでもいいっス」

 ブランデーをストレートで駆け付け三杯、煽ったところで、酔うタマでもないだろうフユトの執拗な絡みを、セイタは半ばうんざりしながら流した。

 昨日の今日で仕事の愚痴を言いたいのはわかるけれど、酒の席でグロテスクなスプラッタの内容を聞きたいわけじゃない。下世話な話も嫌いじゃないが、ここはもう少し色っぽい内容のことを聞きたいわけであって、後期高齢者の下肢の具合だとか、フユトの倒錯めいた興奮を聞きたいのではない。

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