坩堝-4
本人曰く、あれは本気で怒ったのではなく、パフォーマンスだったらしいけれど。武闘派による血の報復を思えば、相手の、しかも会長の前歯を駄目にしてまで拳銃を押し込もうとは思わないのが普通だ。威嚇のために部下の一人二人を誤射してしまうのは仕方ないとしても、最初からカシラを狙うのは頭がおかしいとしか言いようがない。
フユトがシギに懐柔されたのは、敵に回したくないからでは決してない。泰然自若、大胆不敵、傲岸不遜。それらを体現するシギが内包する脆弱さを知っているし、シギのそれはフユトが抱え込む弱さに酷く似通っている。だからと言って、傷の舐め合いをするために一緒に居るのでもない。所詮、二人は他人だ。本当の意味で理解し合うことも、混ざり合うこともないけれど、受け容れて寄り添う、その距離感が拠り所になっている。
髪を撫でられて目を開ける。買い出しに出たシギが戻ってきたらしい。ソファに俯せたまま、気持ちよく転寝していたフユトは寝起きのぼんやりした眼差しを、髪を撫でた指の持ち主に向ける。シギが心底、愛しいものを見つめる目で見下ろしている。
「……寝てた」
と言いながら、のそりと身体を起こすと、
「無理させて悪かった」
聞きたかった言葉を言われたから、別にいい、と首を振った。
今日が久しぶりのオフなのはシギも知っているだろうし、身体に残る倦怠に任せて惰眠を貪る日にしてもいい。浅い眠りを揺蕩うように生きていた頃が嘘みたいだと未だに思う。シギと共に過ごすようになって、眠る、ということの快適さを満喫できるようになった。三時間以上は絶対に眠らないショートスリーパーのシギが不寝番をしてくれている安堵と、絶対に脅かされない環境にいる信頼感は大きい。
ほら、と差し出された紙カップを受け取った。プラスチックの蓋の飲み口を開けると、焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いがする。きっと近くのコーヒースタンドで買ってきてくれたのだ。朝食に固形物を摂らないフユトの習慣と、コーヒーの味の好みまで知り尽くされるほどに、シギとの付き合いも長い。胃に落ちるコーヒーの温もりと共に、深奥の空虚が満たされていく。決して埋まることがないと思っていた喪失感が癒えていく。
「今日はどうする」
ソファに座ってぼんやりするフユトに、執務机へと戻ったシギが問うてくる。
「特に予定もねェし、寝てようかと思った」
正直に答えると、
「準備もあったからな」
仕事を割り振った本人であるシギが頷くのを横目で見る。
長年、調整を重ねた結果、フユトに回される仕事は凄惨極まりない内容のものか、狙撃案件がほとんどになった。同業者から怖いものなしと思われていながら、子どもを殺せないのがフユトの数少ない弱みだ。親を亡くした子どもが行き着くところを知り尽くしているにも関わらず、遠い日の自分を殺すようで嫌になる、とシギに弱音を零してからは任されなくなった。ほっとした反面、失望されていないだろうかと不安になったこともある。けれど、シギはフユトの手を放そうとしなかったのだから、たぶん、そういうことなのだ。
「お前はどうなんだよ」
カップの中身を半分まで減らしながら、フユトは視線を逸らしてシギに予定を尋ねた。甘えたいと思うとき、顔を見られなくなる悪癖はずっと変わらない。
「これさえ終われば予定はない、少し待ってろ」
けれど、声の調子や仕草なんかで、フユトの本音は常に筒抜けなのである。
照れ隠しのようにコーヒーを飲み干して、フユトはカップを捨てるついでにソファから立ち上がる。執務机のシギに背を向けて、
「部屋で寝てる」
ぶっきらぼうに聞こえる口調で告げた。わかった、と答える声が追いかけて来たけれど、それには反応しなかった。
油断したら殺されてしまう夜を、六年、生き抜いた。微かな音や、ちょっとした違和感、風にも満たない僅かな大気の揺らぎだけで目を覚ます、野生動物のような毎日だった。その弊害は今でも執拗くフユトの身体に染み付いていて、唯一の肉親でさえ共寝が容易でなかったのに、シギと一緒だとストンと眠れる。もちろん、最初からそうだったわけじゃないけれど、寝首を掻き切るのがシギの手であって欲しいと思えるようになってから、少し変わった。肌の匂いを肺いっぱいに満たし、シギの鎖骨の下に額を押し付け、足を挟んでもらうと眠気がやって来る。それはもう微睡みではなく、抗いようのない眠気だ。睡魔という、ある種、暴力的な魔物が意識を連れ去ろうとする。
「……ん、」
ブツッと意識が一瞬だけ途切れ、慌てて目を開ける。シギが確実にそこにいると安心するまで続く、フユトの無力な抵抗だ。フユトが深く眠るまで、黙って寄り添ってくれるシギの体温に腕と足を巻き付ける。いつものように後ろ髪を指で梳かれるこそばゆさに、意識の全てを持って行かれそうになる。
手がかかる奴だ、とシギが微苦笑したことがあった。彼にしてみれば他意のない感想だったのだろうが、フユトがびくりと身体を強ばらせて起きたのを見て、煩わせてろ、と言いながら抱き寄せ、額にキスされたことを覚えている。
そこまでして満たされてしまったら、何処にも行きようがなくなる。相手がどんな化け物だろうと、フユトの人生を滅茶苦茶にされようと。どうせ、底辺を知らない安穏とした人間のようには生きられない。泥水を啜りながら這いつくばって乗り越えた六年がある。そこに落とした張本人に飼われるなんて、異常だと言われるかも知れない。でも、だからこそ、飼われ続けたい。
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