坩堝-3

「やっと起きたか」

 リビングに顔を出すと、視界の端だけでフユトの存在を捉えたシギが、顔を向けることなく言った。わかっていたとしても、そこは顔を向けて欲しいと思うものの、本来のシギは情緒に欠ける。表向きなら愛想笑いとわからぬ愛想笑いをするのに、素が出た途端、こうなる。

「お前は何でケロッとしてんだよ」

 腰の痛みから三人掛けのソファの座面で俯せになりながら、フユトが不満を漏らすと、

「俺がイくまでに何十回もイくからだ」

 語尾に「莫迦め」と付きそうな口調で返された。

 それはそれで尤もだけれど、少しは、やり過ぎたとか、腰はつらくないかとか、案じる言葉を掛けて欲しいと思ってしまう。不貞腐れて目を閉じた。結局、フユトが最も好きなシギの甘い顔も声も、事の最中でしか拝めない。あの顔で、あの声で、たった一言、悪かったと言ってくれたら、鼓膜から溶け落ちてしまいそうになりながら、許してしまうのに。

 昨夜はあれから寝室へ場所を移して、間を置かずにきっちり五回、ドライオーガズムを迎えさせられた。それだけで息も絶え絶えだったフユトを更に挿入で追い込んだ張本人は、確かに一度しか吐精していないのだから、事後の差は無理からぬ話ではある。

「……遅漏め」

 挿入されてからシギが達するまでの時間を思いながら、フユトがぼそりと毒づくと、

「早漏のお前よりはマシだ」

 地獄耳のシギが屈辱的な揶揄をする。

 つくづく嫌な奴だと苛立ちながらも離れられずにいるのだから、フユトはそんな自分も嫌になることがある。ものの、シギの傍らの居心地がいいのは嘘じゃない。取るに足らない軽口の応酬をして、時に怒らせて泣きを見るほど攻め立てられても、寂しい夜に手を伸ばすと何も言わずに指を絡めてくれるところとか、擦り寄るとほんのり甘く香る気がするシギの体臭とか、平熱三十五度の冷ややかな体温とか。そういう諸々が手放せない。

 この男がフユトの実母を殺害し、劣悪な環境に落とし込んだ張本人であっても、だ。

「……腹減った」

 沈黙を破って、フユトがぽつりと呟くと、

「出るのが無理なら買ってくる」

 黒檀の執務机のタブレット端末を見つめていたシギが、フユトの好きな甘い微笑を口許に湛えて振り向いた。こういうところだ。全てを計算づくで振る舞うところが嫌いなのに、嫌いになりきれない。

 寝そべったまま、じっとりと見据えるフユトに、革張りの椅子から立ち上がったシギが近寄ってくる。さらりと髪を撫でる細い指の感触が心地好く目を細めると、身を屈めたシギがこめかみに口付けるから、喉の奥で蟠る文句は全て霧散した。

 大嫌いなのに大好きで、もう、どうしようもない。意味もなく泣きそうになる。

「……満足しただろう?」

 フユトの複雑な胸中を見透かしたようにシギが言った。昨晩のことを指しているのはわかっていたから、ムスッとしたまま首を振ってやった。

「あれしきで満足するか、バーカ」

 ほら、シギが困ったように笑う。その顔が好きだ。甘やかしても甘やかしても足りないとほざく野良の獣の扱いに、永遠に迷っていればいい。

「戻ったら構ってやるから、機嫌直しとけ」

 もう一度、髪を撫でた指が離れていく。胸の奥がきゅっとして、その手を掴みたかったけれど、フユトは堪えるように目を閉じた。

 表の仕事のときは、秘書を兼ねるボディガードがシギの背中を守るけれど、裏の仕事のときはフユトもたまに追従する。スーツにしろ私服にしろ、黒ずくめか白黒モノトーンを身に着けるシギに合わせて、仕事で一緒に行動するときはフユトもダークトーンの服を着る。歓楽街を歩く二人を見掛けたことのある舎弟曰く、「あんなの誰も近寄れっこないっス」だそうだ。道理で人混みでも歩きやすいわけである。

 フユトは生まれつき目つきが悪いし、修羅場慣れした気迫もあるのだろう。シギに至っては言わずもがな、手首まである蛇の入れ墨がなくても、堅気ではないとわかる雰囲気を醸すせいかも知れない。

 一般的には反社会的組織と呼ばれる組織の幹部や、省庁勤めの官僚、某政党某派閥代議士の私設秘書、たまに代議士本人、政財界の大物連中なんかと極秘裏に会談をするために、超高級クラブやラウンジを貸し切り、接待したり接待されたりもシギの裏の仕事のうちだ。シノギの縄張りの調整や、物事を有利に進めるための袖の下の額、政権闘争に伴う利権や汚職絡みの抹消リストの打ち合わせ、人身臓器売買に於ける国内と海外のレートや密売先の開拓等々。聞くともなしに聞いていると、世の中そんなもんかと言いたくなってしまう。そんな会談だから、途中からきな臭くなることもある。そのときのために、フユトが愛銃のオートマやマグナムを携えて控えるのだ。

 射撃の腕と命中率はシギに勝てないながら劣らない。場所が狭ければ狭いだけ、たった一発が重要になる。

 そうやって一年もすると、会談の場に現われた相手がフユトの姿を見るなりビクつくようになるのは面白かったが、何気なく目が合っただけで怯えられるのは不本意だった。殺気など放っていないし、睨んでもいないからだ。引き攣った声まで出された日には、悪くない機嫌まで底辺に落ちる。最終的に、どうやって殺してやろうかと目で語るようになる。

「今日は大人しくしておけ」

 と、会談の前にシギに忠告されるのも癪に障る。勝手に怯えるのは相手であって、フユトはただそこにいるだけだ。牽制したことも、意味深な動作を見せたこともない。

 そもそも、怒らせると怖いのはフユトではなくシギだ。フユトはその場にいなかったものの、何時ぞやの会談相手が舐め腐った態度を取り続けたために、その口腔にシギのシルバーの愛銃を突っ込んで黙らせた逸話は聞いている。その相手というのが武闘派で知られる反社会的組織の会長だったと伝え聞いたフユトは、シギだけは絶対に敵に回すまいと思ったものだ。

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