第3話 美味しい食事に囲まれて
しばらく湯に浸かっていると、空腹だった事を思い出させるかの様に、ぐぅっと軽快にお腹が鳴った。
全身はしっかりと温まっている。焦らず、ゆっくりと湯船から上がると、綺麗なお湯で身体を濯ぎ流す。
先程まで身体の至る所にあった、赤く腫れていた炎症は、今では嘘の様にすっかりとなくなっていた。
浴室には暖かい湯気が立ち込めている、曇った縦鏡の前で座り、鏡の曇りを掌の腹で拭う。縦鏡は少し冷たい。
石鹸を泡立てて、全身を洗っていく。全身をもこもこにするとまるで泡のドレスを纏ったみたいだ。良い香りのする洗髪剤を手に取り髪に馴染ませ、軋んだ髪をほぐすように揉んでゆく。
洗髪剤から生み出されるきめの細かい泡が、絡まった頭髪を優しく、ほどきながら柔らかに泡立つ。
カグラは全身が泡に包まれたのを確認すると、あったかいお湯を頭からザバっと一気に被り、勢い良く全身を濯ぐ。
もこもこになった泡を洗い流すと、枯れた大地の様だった肌は瑞々しい張りが蘇り、無駄に長い髪の毛は本来のツヤを取り戻し、生き返っていく様な感覚があった。
まだ空腹ではあるが全身に気力が漲る。
泡と一緒にお湯に流されて行ったのか、つい先程の気持ち悪さが嘘の様に、全身の汚れがすっきりと、さっぱりと落とされた。
こんな気持ちになるのはいつ以来だろうか?
心の奥底にまとわりついていた、億劫な気分までも洗濯された様な、そんな清々しい気分だ。
まるでこの場で新しく産まれ変わった様な気分で居た。
赤子がこの世に生を受けて浸かる初めての産湯。モイラの薬湯はカグラにとって、新たな人生の産湯と呼ぶに相応しい。
浴室をでて湯上がり用の手拭いを手に取る。とてもふわふわしていて、身体に当てると心地良い感触であった。全身の水滴を優しく拭いて行く。
身体を拭き終わると、くしゃくしゃと頭を包んで、モイラの用意してくれた服に着替えた。
少し大きめだが今まで着ていたボロ切れよりも、遥かに上質な服でとても暖かい、そして何よりも肌触りが柔らかい。
「お風呂上がったならこっち来な、髪を乾かしたげるから。」
言われた通り声の聞こえた方へと向かう。トントントン、コトコトコト、ジュージュージューッと軽快なハーモニーが響いている。どうやらモイラが台所で料理をしているようだ。
鍋やフライパンからたちのぼる湯気や油煙が香ばしく良い匂いを運んでくれる。
「ちゃんと綺麗にしてきたようだね。えらいえらい。」
野菜を刻みながら、微笑むモイラはそう言うと、パチンッと軽く指を鳴らす。
「乾かす前に、その髪を整えようか。」
ぼんやりと現れるそれは、まるで紅玉のような羽衣を纏う者と、翠玉のような色の羽衣を纏う者と、羽の付いた小人達がカグラの目の前で宙に浮いていた。
小人たちは賑やかにくすくすと笑っている。
「その子達は言うなれば"聖霊の眷属"さね。どうやら、みなカグラの事が気に入ったようだね。ご飯を食べる前に、その伸び切った髪の毛を何とかしな。お前達、カグラの要望聞いて一緒に整えるんだよ。」
眷属達はカグラの周囲を遊ぶ様に飛び回る。
彼等と視線が合うと彼女は「よろしく、お願いします」と会釈をした。
「なりたい自分を頭の中で想像するんだ。後はその子達がやってくれるからさ。」
「わかりました。」
目を瞑り、言われた通り祈る様にして頭の中でなりたい姿を思い浮かべる。
飛び回っていた眷属達はカグラの頭髪を切りはじめた。
一体が両手で束ねた髪を、他の一体がシャキシャキと軽快な音を立てて手際良く切って行く。
切った髪の毛は眷属達が口へと運び咀嚼していた。喜ぶ表情の眷属達、異様な光景にカグラは驚く。
「え…?それ、美味しいの…?」
「アンタの頭髪に残った魔力を喰ってんのさ。どうやらその子達を見るとアンタ、大分良質な魔力を持ってる様だね。この子ら、カグラを大分気に入った様だよ。」
眷属達は切った髪の毛を取り合う様に戯れあっている。そして数刻後、カグラの頭髪はモイラと全く同じ髪型へと変わっていた。眷属達も一仕事終えて満足している様だ。
カグラの姿を見てモイラは目を丸くした。
「…それは冗談のつもりかい?」
まるで自分を小さくして、髪の色を変えた少女が目の前に現れると、モイラは困惑していた様だ。
「…ご、ごめんなさい…。私、こう言うの、あんまり知らなくて…。」
「…ま、仕方ないね。そう言うのもおいおい一緒に学んで行くとしようか。ほら、こっちにおいで、晩ご飯にするよ。」
テーブルには埋め尽くす程の色々な料理が用意されていた。これをモイラが一人で作ったと考えると、カグラは驚きを隠せなかった。
「すごい…こんな、こんな沢山…見た事ない…」
「さ、早く座りな。さっさと食べないとせっかく作った出来立ての料理が冷めちまうよ。」
カグラは「は、はい!」と少し慌てながら椅子へと座る。モイラも席に座ると手を組んで祈りはじめた。カグラもモイラの真似をして目を瞑り祈る。
「…全ての生命に感謝してこの食事をいただきます。 この場に用意されたものを祝福し、我が身、我が糧とし、この祈りを捧げます。」
祈りを終えるとモイラはカグラに微笑む。
「さ、たんとおあがりよ。回復薬と薬湯の薬効でカグラの胃袋はだいぶ良くなってるはずだから。」
「はい、いただきます!」
「沢山、召し上がれ。」
ドレッシングが軽くかけられた、シャキっとした軽快な食感のレタスと、みずみずしく酸味と甘みが溢れるトマトのサラダ。
一口噛むと皮がパリッと弾け、口の中に肉の脂と旨味を広げる、むちっと膨張するぐらいに茹でた豚肉の腸詰。
ミンチ肉をふんだんに使いスパイシーなソースがかかった食べ応えのあるパスタ。
カリカリのクルトンが浮かんだ、一口含むと濃厚な味わいがある琥珀色の澄んだスープ。
ほのかな酸味があるクリームチーズを乗せたカリカリのバケット。
口の中でほろほろと崩れるくらいに煮込まれ、野菜の甘みを直接感じられる根菜のポトフ。
夢中になって食事を口に運ぶ。あまりにも美味しそうに一心不乱に食べるカグラの姿に、モイラはすこし苦笑して穏やかに微笑む。
「うまいかい?」
「…はい、とっても。」
誰かと共にする、暖かくて美味しくて楽しい食事。久しく忘れていたのか、それとも初めての感覚だろうか、涙が自然とカグラの頬を伝う。
「おや?どうしたんだい?」
「…誰かと、こんな、こんなに美味しい食事をしたの、初めてで…。」
「…奇遇だね、こんなに楽しい食事は私もさ。カグラの食いっぷりを見てると何時もよりご飯が美味く感じるよ。」
微笑むモイラに見守られて、涙を溢しながら食べる温かい食事の味は、ほんの少しだけ塩味が増している様に感じる。
食べれば食べるほど食欲が湧き、食べれば食べるほど活力がみなぎって行く。モイラと談笑しながらの食事はとても楽しかった。
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