第2話 神秘の森で拾われて

目の前の女性が短く静かに詠唱をすると、カグラの身体はふわりと宙に浮いた。まるでふわふわと軽い羽毛の様になった不思議な気分で、少しだけ心地が良かった。


「…あんた、運が良いのか、それともこれが運命なのか…。ま、ここで立ち話もなんだからさっさと私の家にいくよ。…と、その前に…」


女性は小瓶を取り出して手渡してくれた。

キラキラとエメラルド色に輝く、さらさらな液体が小瓶の中に入っている。


「これを飲みな。私が調合した特製の回復薬さね。気休め程度だけど、身体のは痛みが和らぐよ。なに、毒になる様な物は入ってないから安心しな。」


自然と彼女の事を疑うこともなかった。しかし、提供された液体が毒だろうがなんだろうが、既に空腹の限界に来ていた、カグラにとってそんな事は最早どうでも良かった。


小瓶の中の液体をこくんこくんと喉音を立てて、一気に飲み干す。


「惚れ惚れするぐらいの良い飲みっぷりだね、だいぶお腹空いてるんだろう。早く帰るよ。」


彼女の言う通りだ。空腹が酷すぎてお腹と背中がくっ付くとはまさにこの事だ。


口内に広がる薬草の味だろうか。少しだけ苦いが、爽やかな清涼感とほのかな香り、くどくないほのかな甘味、そして酸味があり慣れると、とてもクセになりそうな風味だ。さらさらとした液体が荒れた食道を通ると、大地に水が浸透する様にすっと馴染む。


そして、驚いた事にその水薬の効果はすぐに現れる。さらりとした液体は身体の奥から潤し、喉の痛みを取り除いてくれて、全身に走っていた炎症をだいぶ和らげてくれた。

そして、五臓六腑に染み渡り、全身がぽかぽかと温かくなっていった。水薬の薬効なのは間違いない。カグラの中の活力が蘇ってきた。


「あり…がとうござい…ます。」


「多少はマシになったみたいだね。」


少し掠れた声で御礼を言うと、女性は穏やかな表情で微笑む。


「…私はモイラ、この森の奥で一人で暮らしてる長耳族さ。お前さんは何者で、どこから来た?…そこらに居る普通の人間じゃあこの森には入れないよ?」


「…私…私の名はカグラ…です。ずっとずっとあっちの方から走って逃げてきました。何も考えずに、ただ真っ直ぐ逃げて来ただけなので…どうやってここまで来たかは覚えていません…。」


カグラは村の方角を指で示すと、モイラは表情を濁らせていた。知っているのだろうか。


「その方角…。私の知る限り、ある村には未だによくない風習があるらしいが…。お前さん、もしかしてその口かい?」


黙って静かに頷く。あの村の事は正直なところ思い出す事さえも苦痛だった。


「…そうか、しかしこの森に入れるって事はカグラは"善き人間"と言う事だ。幸いにも私の家は一人で住むには大分広く出来てるからね。心が落ち着くまでゆっくりしていきな。」


「…どうして、助けてくれるの…?」


その言葉を聞いたモイラは優しく微笑んだ。


「カグラ、あんた東から逃げてきたんだろう?私も同じさ。西の国から逃げて来たんだ。ま、親近感ってやつさ。」


そう言ってモイラが全身を見渡すと、少し顔を歪めた。


「…しかし、お前さん、だいぶ汚れてるね。とても臭うよ。…それに傷だらけだ。ここまで来るのにはとても厳しい旅路だったろうに。」


モイラは一瞬、悲しげな表情でカグラを見た。不思議な顔をしていると彼女は再び穏やかな表情に戻っていた。


「とりあえず、夕飯前にお風呂にするよ。特製の薬湯を準備してやるから気が済むまで浸かりなよ。」


「はい、わかりました。」


そのまま魔法で、ふわふわと浮かんだまま浴室へと連れて行かれた。

風呂はモイラが手際よく準備してくれた。

湯気が立つ、幅広い浴槽の中の湯船には、色々な薬草や何かの果実、花弁等様々なモノが浮いている。良い香りが漂う。


「身体は洗わず、湯船にそのまま入りな。湯船から上がったら、かけ湯で身体を流すんだ。洗髪剤も石鹸も鏡の所にあるからちゃんと使って身体や頭も洗うんだよ?湯上がり用の手拭いと着替えを用意しておくから全部終わったらそれを使いなね。」


「…何から、何まで…ありがとう…ございます…。」


「…ま、初日だけは久方ぶりの客人として、しっかりもてなしてやるさね。」


モイラとは初対面だったのに、彼女は親切でとても面倒見が良くて、素性の知れない少女を一人の客人として丁寧に扱ってくれた。村にいた人々と彼女を比べるのは失礼なぐらいだし、何時の間にか、自分の元からいなくなってしまった両親よりも、頭の中で理想に描いていた慈悲深い親という姿は、そう、こんな人なのだろうと思う。


カグラはボロボロの衣服を脱ぎ捨てて湯船に浸かると、身体に今まで染み込んだ毒素が溶けて、外へと抜け落ちる様な感覚を覚えた。

暖かい湯は、炎症した傷口に染みる事なく、ごく自然と浸透していく。先ほど飲んだ回復薬を全身に浴びている、そんな錯覚を覚えた。


こんなにも暖かくて、気持ちの良いお風呂に入ったのは、産まれてこの方初めての事だ。


湯船に浮かぶ果実と花弁の香りが、恐怖で冷え切った心を穏やかにしてくれる。

程よく暖かい熱が身体の芯と骨の髄まで染み渡り、全身を包む。


ついさっきまでの地獄がまるで嘘みたいだ。


カグラは今、夢の中で自分の見たい世界を見ているのではないか。

それとも、本当は既に荒野のどこかで力尽き果てて、天に召されているのではないのだろうか。

そう思えるぐらいには、とても穏やかな時間が流れている。


心地のよいひと時、安息の時間。暖かな湯船の中で、このまま眠ってしまいそうな気分だ。

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