カグラ幻想記

@kanapon301015

第1話 命かながら逃げだして

その日の夕方、カグラは村を飛び出した。


今まで住んでいた家から逃げ出して、行く宛てもなく真っ直ぐにただひたすら歩き続けた。

住んでた村に未練なんて一切なく、振り返る事なくずっと真っ直ぐに歩き続けた。


拾い子だった所為なのか、それとも何か別の理由の所為なのか。いや、夫婦にとって所詮カグラは奴隷でしかない。

毎日、何かしらの理由でカグラは夫婦から殴られ、怒鳴られながらの農作業。生命をかけた害獣の狩猟でこき使われる毎日を過ごす。


まともな食事は与えられず、その日のうちに何処からかとってきた、冷えきった料理を毎日一人で食べる。

手入れもせずに乱暴にのびて軋む、枝毛だらけの邪魔な髪の毛を、空いた片手でかき上げながら、味のしない冷たい料理とは言えない何かを口の中へと運んでいく。

誰との会話もなく、一人無言で腹を満たす食事。


幸せ、と言うには程遠い生活だった。


カグラを奴隷としてこき使う夫婦から、酷く散らかった納屋を自分の部屋として与えられていた。暖炉のある暖かな夫婦の家には入れてもらえなかった。


納屋の中の夏は蒸し暑く、冬は凍える様に寒い。何よりとても汚く、使わなくなった物やゴミが散らかっていて、あまり良い環境とは言えなかった。それでも、飼育用の藁にくるまって寝る時に、外で吹き荒れる雨風を凌げる分だけ、幾分かはマシではあった。


その、多少マシな生活も、彼女の身を引き取ってこき使っていたその夫婦が、村の皆が信仰する山の神だとか、森の主だとかへの供物として、生贄として彼女を差し出した事により音もなく静かに、呆気なく無情に崩壊する。


カグラは村人達の狂信的なその行いが怖くなって、気が付けば一人。一心不乱にそこから逃げ出していた。


彼女が逃げた事を察知した村人達が怒鳴り叫ぶ。


「あの奴隷を絶対に逃すな!追うんだ!どうせ喰われるのだから意識がなくても構わねえ!!」


両親と村の者達は目の色を変えて、逃げるカグラを追ってきた。獣の様な怒号、複数の叫び声が乱雑に木霊し、石や農具やあるいは調理器具、いろいろな物がカグラの元へと投げられて、村中を無造作に飛び交う。


「せめて村の為に役に立て!お前の生命なんかその程度の価値だ!」


「手足が無くても構うな!後で持ってくりゃいい!」


「拾ってもらった恩を忘れて逃げるんじゃ無いよ!!その生命で今まで生きて来れた恩を返せ!!」


誰も彼もがよく言うものだ。カグラの扱いなど、いつ死ぬかもわからない、死と隣り合わせの状況だったのに、村人達は都合の良い罵声をカグラに投げ続ける。


一人の少女、カグラに絶えず降り注がれる罵声、容赦なく襲い掛かる理不尽な暴力。

彼女の目に映るのは、我を忘れ、怒り狂った村人達の歪んだ表情。

それは外皮だけを人間の姿を借りただけの、暗黒を司る魔なる者。

この世の人間達が最も嫌悪する、残虐非道な闇より出る魔物、そのものに思えた。


今すぐここから逃げなきゃ…。


カグラは恐怖に駆り立てられて、脇目もふらず、ただひたすらに真っ直ぐに走り続けた。


その道は想像を絶する程に険しかった。

行く道にとびだした枝葉や、剥き出しの尖った岩石で、全身の至る所に様々な傷を負いながら。泥濘んだ汚泥に浸って身を汚しながら。カグラはただひたすらに真っ直ぐ走り続けた。


西へ西へと真っ直ぐに向かい、周囲が暗くなった頃には、ふと気が付けばひとり、暗い静かな森の中に居た。


静寂で、神聖さを感じる森だった。


カグラは森の中を歩き続ける。


一体どれだけ、何処まで逃げれば良いのだろうか。あてもなく、終わりの見えない逃避行に、カグラは徐々に疲れ始めていった。


上空を覆う程に高く高く伸びて、生い茂る樹々の裂け目の中から、微かに雲をその身に纏い、真っ赤に染まった不気味な月が仄暗い闇に煌々と光を注ぐ。今はただ月明かりに従って、照らされる道を真っ直ぐに先を急ぐ。


ぼろぼろな身体、全身の至る所が傷だらけで傷口が腫れ始めた、じくじくと痛みが疼く。

はあはあと息を切らせて、疲れ果てた身体を走らせる。やがて走る速度は、だんだんと遅くなって行く。果てなく続く長い逃げ道、やがて走れなくなり、身体を引きずる様に歩く。しばらく歩くと、遂にはその場でうずくまる、足は悲鳴を上げて、全身にはじくじくと痛みが走る。もう一歩も歩けない。


もっと、もっと遠くに逃げなきゃ…頭ではそう考えるけれど、身体はとうに限界を超えていた。ここに至る迄の過酷な道のりで創り続けた傷口は、炎症を起こし赤々と酷く腫れ上がる。何も食べずに動き続けた為、お腹も空いて、身体からは力が抜ける一方だった。だんだんと寒気が襲う。


なんで、なんでこんな事になったのだろう。


スッと周囲の空間が広がって、気が遠くなる。視界もぼやけ霞み始めて、意識が彼方へと消えかけた時。すると、いきなり肩を掴まれた。カグラは驚きのあまりビクリと身体がすくみ上がる。


「…お前さん、どうやってこの森に入った?」


村の追手なのか、疲れと恐怖から声も上げる事も出来ず、身体は完全に硬直する。恐る恐る肩を掴んだ主へと顔を向けた。

見覚えのない、肌の白い端正な顔の女性。月光の闇夜で輝く青紫の瞳。じっと見つめる彼女の顔を確認すると内心で安堵していた。村の追手では無いと。


「…どうしたんだい?まさかお前さん…言葉が話せないのかい?」


カグラの視線の先には、月明かりに肩まで伸ばした銀髪を輝かせる、耳が尖った女性が居た。鋭く青紫の瞳を輝かせながら、声の主である目の前の女性は静かに再度尋ねてきた。


「私を見つめてるだけじゃ、何もわからないよ?」


先端に多面体の宝玉を嵌め込んだ杖を片手に、漆黒の法衣に身を包むその姿は、まるで熟練の魔法使いを思わせた。


女性は険しい顔をしてこちらを見ていた。自分のテリトリーに現れた、招かれざる客に対して彼女は心底警戒しているのだろう。

何か言わなくちゃ。焦りながらも乾きで痛む喉、全身の力を振り絞るように、か細く掠れた声を捻り出す。


「…に…げ…」


掠れる声が漏れる度に喉に痛みが走る。もはや唾も飲み込めないぐらいに酷い有様だ。懸命になってここまでの経緯を女性に答えようとしたが、ひび割れた大地の様に乾いた喉では、やはり思ったようには声が出ず、全く言葉にならない。

ぱくぱくと弱々しく口を動かして、身振り手振りで状況を伝えようと必死になっていると、その場の空気を読まず、空腹を訴える様にお腹がぐぅーッ!と音を立てて軽快に鳴り響いた。


「…ッ…。」


カグラは赤面した。


その光景を見た女性は、ぷっと短く噴き出し、明るく笑っていた。そして険しい表情がふと柔らいで、穏やかな空気になった。カグラは照れ臭く、再び頬を染め、そのまま俯く。


「…質問よりも、まず傷の手当と飯が先かね。どうもその様子だと…ここから動けそうにも無さそうだね。」


顔を上げて、彼女と視線を合わせる。

お互いに理解した様に同時に頷く。どうやら目の前の人物は悪い人間じゃないと。本能がそう、理解していた。


「おいで、私のうちに案内してやるよ。」


カグラは女性の言葉にこくりと頷いた。

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