第57話 夜会と呪われた令嬢(2)
名を呼ばれた途端、視線が全身に突き刺さった。
目の前に広がるのは、煌びやかな世界。この世界に、自分はまた否定されるのだろうか。そう思うものの、不思議な感覚に陥っていた。
(……意外と、なんともないかもしれない)
この世の大半を占めているように思えた貴族の世界が、ちっぽけに見える。集まる視線も囁かれる声も、大して気にならない。
理由は明確だった。ララの視界の中で、誰よりも何よりも、テオドールが輝いていたからだ。
「もしここにいる全員が君の敵でも、俺は君を愛している」
忘れるなよと彼は言う。ゆっくりと手が離れたが、心細くはなかった。
(あなたが隣にいてくださるから、怖くないのですね)
テオドール・グラントは偉大な人だ。
どうしようもなく臆病だった自分を、変えてしまった。世界の見え方を、変えてしまった。
ララは前を向いて、ヒューゴたちと広間の奥に進む。途中、ちらほらと自分についての話題が耳に入った。騒がせてしまい申し訳ない。呪ったりしないから安心してほしい。
「オルティス伯爵令嬢が捜査官になったって本当だったのか」
「うん、凄いらしいよ」
なんのことだろう。歩きながら令息たちの声に耳をすませた。
「最近はこんな噂があるんだ。――オルティス伯爵令嬢はどんな犯罪者よりも手際良く金庫を破り、詐欺師をも騙す話術で人から情報をかすめ取る。お手製の回復薬は一晩で傷と心を癒すが、代償として薬の使用者は彼女に心を奪われる。捜査官だけじゃなくて騎士の半分以上が、すでに彼女の信者だ」
そんなわけあるか、と訂正したくなった。令息がしたり顔な点も納得いかない。色々と間違えているし、情報収集に関しては、ララはむしろ役立たずである。
真相を伝えたいがむやみに近付くわけにもいかず、黙って続きを聞く。
「おまけにあれだろ? 嵐の中、大荒れの川に飛び込む度胸と、子供数人抱えて這い出すほどの剛腕」
「訓練では男たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「まさに、怪物」
ララは背筋を伸ばしたまま、内心頭を抱えていた。呪いとは違う意味でよろしくない噂が
「最近じゃあ呪いの噂が霞んでるよな」
「そもそもあの噂、本当か怪しいよね。目が合うと呪われるとか色々言われてるけど、被害者いないし」
フロイドとマックスをはじめとする捜査官たちの宣伝が功を奏したのか、呪いの噂が変わりつつあるようだ。
ララはほっと胸を撫で下ろす。しかしそこで、非難する声が聞こえた。
「被害者ならいます。あなた方、ロレッタ様が五年前に倒れられたのを忘れてしまったのですか?」
声の方を見ると、二人の令嬢が令息たちに近付いていた。テオドール曰く、声の主はヴァイゲル伯爵家の令嬢、ナタリーだそうだ。赤茶色の髪を結い上げており、切れ上がった目元が特徴的だ。
その隣で困ったように俯く令嬢を、ララは知っていた。――ロレッタ・ペレス伯爵令嬢。暗めの髪色と柔らかい顔立ちから大人しそうな印象を受ける、小柄な女性だ。彼女を忘れたことはない。なぜなら昔、失神させた相手だからだ。
どきりとしてロレッタから目を離せないでいると、ナタリーがよく通る声で令息たちに食ってかかる。
「オルティス伯爵令嬢の噂が真実でないとしたら、ロレッタ様が嘘をついたことになるではありませんか」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃ」
令息たちが焦ったように否定する。
「ロレッタ様、オルティス伯爵令嬢の呪いの噂は本当なのですよね?」
ナタリーに質問されたロレッタがビクッと肩を揺らした。数秒沈黙した後、彼女は小さく首を縦に振る。
「は、はい。……噂は嘘ではありません。オルティス伯爵令嬢の顔には確かに」
――呪いの痣がありました。
(なんだ……そういうことだったのね)
五年前から、ララはロレッタに謝りたかった。けれども彼女が失神した理由が分からず、謝れなかった。
今の言葉を聞いて、ようやく謎が解けた。
あのパーティーの数日前、ララは初めてカルマンに顔を打たれた。理由なんて覚えていない。そんなものなかったのかもしれない。
当然顔は腫れあがり、患部は変色した。ララはカルマンの命令に従いヴェールを被り、不慣れな化粧を施した。
(手を尽くしたつもりだったけど、完全には隠れてなかったのね)
普通の令嬢の顔に痣があれば、『暴力や事故の痕』だと認識されたはずだ。しかし残念なことに、ララは普通からかけ離れている。
噂を知っていたロレッタは、ララの顔に薄っすらと残った痣を見て『呪いの痣』だと勘違いしたのだ。そして恐怖のあまり、失神した。
(怖がらせてしまったこと、ちゃんと謝らないと。この場で話しかけても驚かせるだけだろうから、帰ったら手紙を出してみよう)
今までになく前向きだった。誠心誠意謝って、それでも駄目なら仕方がない。そう思えるようになったのだ。
ララが貴族たちの間を通り抜けると、正面からお目当ての人物がやって来た。第二騎士団の制服に身を包んだ、シアーズ侯爵である。
挨拶を交わす最中、ララは侯爵を観察した。身長はテオドールより低いが、体が厚い。短く整えられた髪と、持ち上がることのない口角。アイスグレーの瞳は威圧感がある。
抑揚のない侯爵の声を聞いて、ララは自分の母親を思い出した。
「オルティス伯爵令嬢は別室に。ロックフェラー卿とドーハティ卿は、こちらでお待ちいただきたい」
やはりシアーズ侯爵は、自分に依頼を遂行させたいらしい。ララは侯爵の指示通り動くことにした。
「行ってきます」
ヒューゴたちに背を向け、シアーズ侯爵の斜め後ろを歩く。一人のような顔をして、堂々とテオドールを引き連れて。
人気がない廊下まで来た。夫人の元に向かいながら、侯爵が口を開く。
「君は事情をどこまで把握している」
依頼内容に見当がついているのか聞きたいらしい。
「小さな命が神の元に帰られた、というところまでは」
「そうか。なら話が早い。……ひと月ほど前から、妻が何かに怯えるようになった。自分以外誰もいないはずの部屋で奇妙な音が聞こえたり、棚の上の物が勝手に動くと言っている」
「奇妙な音、というものには、手を叩いたような音も含まれますか?」
「……ああ」
ララは昔、自分の体質と霊について調べようと、手当たり次第に文献を読み漁ったことがある。どれも霊の存在を証明できるものではなかったが、その中に侯爵が言った内容と似た現象の記述があったはずだ。
シアーズ侯爵夫人のそばに、霊がいる可能性が高い。
「不可思議な現象について、夫人はどのように考えておられるのでしょうか」
「産むことができなかった我が子が、自分を恨んでいるのだと。……だから君を呼んだ」
確かにこんな話をできる相手は限られている。
本当に霊が関係しているのならば、夫人を救うとまではいかずとも、多少は力になれるかもしれない。
「では私への依頼とは、夫人の周りで起こっている現象の原因を探ることでしょうか?」
「いいや、違う。妻は影も形もない存在に怯えている。あれは精神的な問題だ」
「え……」
決めつけるような言葉を聞いたララは、心にぽっかりと穴が空いた気分だった。
「依頼は数秒で終わる。妻に、『あなたの近くに霊なんていない』と言ってほしい」
最近理解ある人々に囲まれていたせいで忘れていた。これが普通の反応なのだと。
「……それは、信じていない、ということですか?」
「当然だろう。私は自分の目に映らないものは信じない」
「そういう意味ではございません」
「では、どういう意味だ」
侯爵は歩みを止めぬまま、わずかに振り返った。
虚しい。今から自分は、この人からの依頼をこなさなくてはならないのか。
「霊ではなく、夫人を信じていらっしゃらないのですかと、お聞きしたのです」
一瞬、侯爵の動きが止まった。けれども「対価は支払う」とだけ言い、再び前を向いてしまった。
彼は信じていないのだ。霊の存在も夫人の言葉も。そのくせララにまとわりつく噂を利用し、事を収めようとしている。
ララは侯爵の背中を追いながら、きゅっと拳に力を込めた。
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