第5話 サレ妻、知る。
リリィ・スノウは若い女性のあいだで人気の恋愛小説家だ。
家族に虐げられていたり、夫が愛人を作ったり、望まぬ婚約を強いられたり、大切にしているもの――例えば、家族や仕事、矜持とか――を奪われたり。どの作品でも主人公であるヒロインは悲惨な境遇に置かれている。それでも健気に日々を生きる彼女の前に運命の相手が現れる。
貴族の子息や騎士、時には王子だったり。これまでの主人公の悲しみを埋めるように大切にしたり、甘く優しい言葉で主人公を慰め励ましたり、面と向かっては厳しい言葉を投げかけれながら影では主人公を守ったり。
運命の相手と出会ったことで主人公の日々は好転していく。彼女を虐げ、悩ませてきた者たちは運命の相手によって遠ざけられ、あるいは自滅していき、最後には運命の相手と結ばれてハッピーエンドを迎える。
「
モーリンはそう力説していたのだけれど――。
「リリィ・スノウは……ルイさん、なんですか?」
顔を両手で覆って耳まで真っ赤にしたルイが無言でこくりとうなずいた。どうやら〝彼女〟ではなく〝彼〟だったらしい。
「ルイさんが小説を書いていることは知っていましたが、てっきり……えっと、その……れ、恋愛小説もお書きになるんですね」
現在唯一の〝聖獣の側室〟が貴族たちの暴露小説を書いては破滅に追い込む鬼畜だという話は社交界に広く伝わっている。てっきり暴露小説ばかり書いているのだと思っていた……と言うわけにもいかず、ハナはぎこちない笑顔で言った。
「暴露小説は家族に厄介ごとを押し付けてしまったせめてもの罪滅ぼしというかなんというか……。主に書いているのは恋愛小説。リリィ・スノウ名義で出している小説の方、なんです」
真っ赤になった顔を両手で隠したままルイはぼそぼそと、いつもからは考えられないほど小さな声で答える。あまりにも弱々しい声と一向に顔を隠すのをやめないルイに内心、おろおろしながらも一切、動揺を顔には出さずにハナはにっこりと微笑んだ。
「そ、そうだったんですね。大人気ですよね、リリィ・スノウの……ルイさんの書かれたしょ、小説!」
顔には出さなかったけれど声は思い切り上ずってしまった。ハナの声に思わず顔をあげたルイと顔を見合わせ――互いに苦笑いする。
「ありがとうございます。でも、リリィ・スノウが男だと知るとガッカリする人もいると思うので口外しないでください。一生のお願いです。後生です。どうかお願いします」
「わかりました、言いません。イメージ戦略というものがありますものね。……い、言いませんからじわじわ土下座の体勢を取ろうとしないでください!」
「でも……」
「絶対に言いませんから!」
「ワフッ!」
「……」
ハナの悲鳴を後押しするようにコカがひと吠え、ラーミもじっとルイを見つめる。六つの目に見つめられてルイはゆっくりと背筋を伸ばすと――。
「ありがとうございます、ハナさん」
はにかんで微笑んだ。ルイの表情にハナはほっと息をついた。
「でも、本当に……ルイさんがあのリリィ・スノウだなんて驚きです。社交界にも熱心なファンがたくさんいるんですよ。モーリンも……わたくしの侍女も大ファンなんです」
「そうなんですか? それは……とてもうれしいです」
「このファンレターも、そのモーリンが書いたものなんです」
くすくすと笑いながら手に持ったままだった手紙を差し出す。届いてからずいぶんと経っているはずなのに封を開けてもいない手紙。それを受け取りながらルイは困り顔で微笑んだ。
「せっかく感想を送ってくれたのにもうしわけないです。でも、読んでみないとファンレターかわからないので……その、自衛のために……」
「なるほど。自衛、大事ですよね、自衛」
リリィ・スノウ宛の手紙だけでなく聖獣のラーミとコカ、ルイ宛の手紙まで封も開けずに積んでいるのはどうかと思うけれど――自衛は大事だ。
ハナは同意するように深々とうなずいた。
「モーリンにリリィ・スノウに会ったって話したらきっとびっくりするのに。話せないのがちょっとだけ残念です。彼女、リリィ・スノウの本を全冊三セット持っているんですよ」
「三セット?」
「保存用、観賞用、布教用……というやつですね。屋敷にいる人、来る人、みんなに薦めてるんです。わたくしも薦められて読んだことが……」
「ハナさんも読んでくださったんですか!?」
「え、あ、はい!」
ルイのはにかんだ微笑みが途端にキラキラとした笑顔に変わる。感想を求めているのだろう圧強めの青い瞳に見つめられてハナは困り顔で微笑んだ。
確かにモーリンに薦められて読んだ。読んだのだけれど――。
「……」
キラキラの目で見つめるルイの後ろからじっとハナを見つめるラーミの金色の目と目が合った。〝聖獣の側室〟であるルイはコカやラーミの言葉を理解しているようだけどハナにはわからない。わからないけれど、〝素直に話せ〟とラーミに言われている気がして――ハナはルイに向き直ると深呼吸を一つ。
「モーリンに薦められて一冊読んだことがあります。でも……ごめんなさい。
そう言った。
言いながらハナの声が尻すぼみに小さくなっていったのはルイのキラキラした目がみるみるうちに曇っていったからだ。やはり伝えるべきではなかったのかもしれない。でも、これがハナの素直なリリィ・スノウの小説を読んだ感想なのだ。
前世の――望月 花奈の記憶が戻った今なら読み終えたときに感じたモヤッとした気持ちの理由がわかる。
「こんな風に上手くいくわけがない」
――少なくとも
「そんな風にひねくれたことを考えてしまって……きっと恋愛小説を読むのに向いていないんです、わたくし」
へら……と気の抜けた笑みを浮かべるハナにルイは泣き出しそうな顔になった。でも、唇をきゅっと噛むとすぐに穏やかな微笑みを浮かべた。
「ハナさん、知ってますか。珍しいと言われる左利きだけど、実は人口の一割ほどが……十人に一人が左利きだと言われているんです」
「……え? ひ、左利き?」
唐突に変わった話題にハナは目を丸くする。でも、ルイは気にするようすもなくニコニコ顔で話を続ける。
「珍しいと言われる転生者も潜在的には左利きの人と同程度いるのではないかと言われています。ただ、転生者だと打ち明ける必要がなかったり、話したところで共感してもらえないことが多いから話さない。まわりは転生者だと知らないだけ」
「そういうもの、なのでしょうか?」
「えぇ、そういうものなんです。逆に相手が転生者だと分かれば自分もそうなんだと打ち明ける人は多い。だから、転生者のまわりには転生者が多く現れるように見えるんです」
「あの、もうしわけありません。お話の趣旨が……」
「俺も転生者なんです」
ハナの言葉を遮ってルイがさらりと言う。言葉の意味が飲み込めずにきょとんと首をかしげたハナだったけど、ゆっくりと目を見開く。
ルイが――ルイも、転生者。
「前世の俺にはずっと片思いをしていた女性がいました。でも、彼女は他の男と結婚をした。嫌な予感がしていたんです。結婚する前も、した後も。街で見かけるその男の様子や彼女の様子から嫌な予感がしていたんです。でも、勇気がなくて結局、俺は何も行動しなかった」
言いながらルイは両の手のひらに視線を落とした。両手からこぼれ落ちてしまった何かの残骸がそこに残っているかのように険しい表情で自分の両手を見つめている。
「何か行動していたら。勇気を出して彼女の手を掴んでいたら。もしかしたら彼女は大切な家族を失わないで済んだかもしれない。死なないで済んだかもしれない。あのとき俺が何かしていたら……」
ぎゅっと握りしめた拳を胸に抱きしめるルイの姿にハナは唇を噛んだ。
ルイは本当にその女性のことが好きだったのだろう。不用意に触れられないほど大切に思っていたのだろう。そして転生した今でも、その愛情も後悔も過去のものになっていないのだろう。
ルイの胸の内にある思いすべては到底、理解できない。でも、ルイの横顔を見つめているうちに胸が苦しくなってきて、ハナもまた握りしめた拳を胸に抱きしめていた。
「リリィ・スノウが書く小説は彼女をこんな風に助けたかった、こんな風に幸せにしたかったという俺の後悔と願望なんです。〝あなたの小説を読むと幸せな気持ちになれる〟とどれだけの人に言われても意味がない。彼女に言ってもらえなければ、何の意味も……」
ハナの胸にも、もうどうすることもできない前世の後悔が――ノエルを手放したという後悔が残っている。だから、ルイの言葉を聞いていると――表情を見ていると胸が苦しくなる。
「率直な感想ありがとうございました。ハナさんに言われて目が覚めました」
唇を噛んでうつむいていたハナはルイの明るい声に顔をあげた。目が覚めたとはどういう意味だろう。首をかしげて声には出さずに問いかけてみた。でも、ハナの疑問には答えずにルイはにっこりと微笑むだけだ。
「……」
「ワフッ!」
「〝明日は休みだ〟〝また明後日、待ってるよ〟とラーミとコカが言っています。ハナさん、また明後日お会いしましょう」
一瞬、困り顔になったハナだったけれどルイの表情が晴れやかなのを見て頬を緩めた。目が覚めたという言葉の意味はわからない。
でも――。
「はい、ルイさん。また明後日」
ルイの胸の苦しみが少しでも軽くなったのならそれでいいと、ハナはそう思った。
***
次の日――。
「ようこそ、ハナ様。お待ちしておりましたわ」
グレイヴス侯爵邸を訪れたハナを出迎えたのはグレイヴス侯爵家令嬢、アデレード・グレイヴスだった。
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